りませぬ……わたくしはお暇をいただきとうござりまする、わたくしはお暇をいただいて帰りまする」
 お君はついに堪《こら》えられず喚《わっ》と泣いてしまいました。
 ほどなく能登守は悄々《しおしお》として、お君の部屋を出て帰りました。
 もとの一間へ来て、火鉢の上に片手をかざして、前のように物思わしげに、まだ寝ようともしません。
 今の有様は、主従のところを換えたような有様であります。能登守としては思いがけない弱味でありました。お君としても思いきった我儘《わがまま》の言い分のように聞えました。
 能登守はかえって、お君に向って申しわけをし、或いは哀求するような物の言いぶりは歯痒《はがゆ》いものであります。お君は始終泣いて泣きとおしていました。見様によっては拗《す》ねて拗ね通しておりました。さすがに、能登守ほどのものが、そのお君の張り通した我儘に、一矢《いっし》を立てることができないで、悄々《しおしお》と引返すのは何事であろう。一廉《ひとかど》の人物のように言い囃《はや》された能登守、それをこうして見ると、振られて帰る可愛い優男《やさおとこ》としか思われないのであります。
 それと思い合わすれば、このごろお邸のうちに噂《うわさ》のないことではありません。殿様がお君さんを御寵愛《ごちょうあい》になる……という噂が誰言うとなく、口から耳、耳から口へと囁《ささや》かれているのであります。
 けれども、それがために誰も主人の人柄を疑う者はありませんでした。その地位から言えば諸侯に準ずべき人なのですから、幾多の若い女を侍女として左右におくことも、また妾としてお部屋に住まわしておくことも、更に不思議なこととは言えません。寧《むし》ろそういうことをせぬのが、その周囲の人から不思議がられるのでありました。
 能登守は一人の奥方に対してあまりに貞実でありました。その奥方が病身なために能登守は、女房がありながら鰥《やもめ》のような暮らしに甘んじていることは、家名を大事がる近臣の者を心配がらせずにはおきません。
 妾をおくことを、お家のための重大責任として家来が諷諫《ふうかん》したものでありました。けれども能登守は、それを悟らぬもののようであります。
 お君を有野村の藤原家から呼び迎えたことが、誰からも勧《すす》めずに、能登守自身の発意に出たことは、家来の者を驚かすよりは、かえって欣《よろこ》ばせたのでありました。
 そうして日を経て行くうちに、お君がいよいよ殿様のお気に叶《かな》ってゆくことを、家来の人たちは妬《ねた》みも烟《けむ》たがりもせずに、恐悦してゆくのでありました。
 そのお君が、この若くて美しくて聡明の聞えある殿様の前へ出ることを戦《おのの》くようになったのは、ついこの二三日来のことでありました――それと同時に能登守の美しい面《かお》に重い雲がかかって、憂愁の色が湛《たた》えられるようになったのも、ふたつながら目に立つ変化でありました。
 人に面を合せない時は、お君は部屋に入って泣いているのであります。能登守は茫然として、何事も手につかずに考え込んでいることが多いのであります。
 今もこうして能登守は、同じような憂愁の思いに沈んで寝ることを忘れていました。この時、廊下を急ぎ足で忍びやかに走る人の気配《けはい》がありました。
 能登守が低《た》れた首を上げて、その人の足音を気にすると、
「殿様」
 障子を押しあけてこの一間へ入って来たのは、今まで泣いていたお君でありました。お君の振舞《ふるまい》はいつもとは違って、物狂わしいほどに動いてみえました。それでも入って来たところの障子は締め切って、そして能登守の膝元へ崩折《くずお》れるように跪《ひざま》ずいて、
「どうぞ御免下さりませ」
と言って、やはり泣き伏してしまいました。
「お殿様、わたくしが悪うございました、わたくしが悪いことを申し上げました、わたくしがお暇をいただきたいと申し上げたのは嘘でございます、わたくしはいつまでも……いつまでもお殿様のお傍にいたいのでございます、どうぞ、お殿様、よきようにあそばして下さいませ」
 お君は泣きながらこう言いました。こういって能登守の膝の下に全身を埋めるほどにして身を悶《もだ》えながら、またも泣きました。
 この時まで能登守の面《かお》に漲《みなぎ》っていた憂愁の色が一時に消えました。そうして炎々と燃えさかる情火に煽《あお》られて、五体が遽《にわ》かに熱くなるのでありました。
「よく言うてくれた、お前がその気ならば、拙者《わし》はいつまでもお前を放すことはない、お前もまた誰に憚ることもあるまい、今日からは召使のお君でなくて、この能登守の部屋におれ」
「…………」
「そうして、お前は好きな女中を傭《やと》うて、その部屋の主《あるじ》となってよいのじゃ、人に
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