って無能呼ばわりをされようとも、出過ぎた仕事は一つもしていませんでした。それ故に神尾主膳らが、能登守を忌み嫌うというのも単に感情の問題のみで、仕事の上では嫉視《しっし》を受けるような成功もしなければ、弾劾《だんがい》を受けるような失態もしていませんでした。
名は勤番支配というけれども、実はその見習いのような地位に甘んじて、能登守は別にその新知識を振り廻したり、冴《さ》えた腕を振おうとしたりしませんでした。家来の若い武士はそれを物足らず思って、多少は献策をしたりすることもあったけれど、能登守は、さっぱりそれを用いてみようという模様がありません。それでただ自分の連れて来た比較的少数の家来だけを進退して、まるで島流しにでもなったような心持であるらしくあります。
やや手強く言ったことは、この間の神尾主膳の結婚問題の時ぐらいのものでありました。能登守のあの一言のために、神尾と藤原家との縁談はまだ行悩んでいるようでありますけれど、そのほかには能登守が人の意見を妨げたり進路を塞いだりしたような挙動は一つもありませんから、やはり無能と侮《あなど》られようとも、恨みを受けるような形跡は一つもないのであります。
人を取立てたために、その競争者から恨まれるというようなこともまた、一つもないのでありました。
ここへ来てから能登守が取立てた人といえば――それはお君を、有野村の藤原家から迎えて来たくらいのものでありました。そのお君でさえ、どうしたものかいま主人に呼ばれたけれども返事がないのであります。お君のいるところにはムクもまた在《あ》らねばならぬはずでありましたけれど、今宵のような騒ぎの晩に門を守っていないから、ムクもまたこの邸にはいないものと思われても仕方がありません。
ややあって能登守は立って、この客間を出て廊下を通りました。
「君」
能登守が足を留めて障子を外から開いた部屋には、高脚《たかあし》の行燈《あんどん》が明るく光っておりました。
能登守はこの部屋の障子をあける時に、お君の名を呼びましたけれど、お君の声で返事はありませんでした。
お君の返事こそはなかったけれど能登守は、その部屋の中へ隠れるように入って、障子を締めてしまいました。
「お君」
と言って行燈の下に立った能登守は、そこに面《かお》を蔽《おお》うて泣き伏しているお君の姿を見たのであります。
お君は泣き伏したまま、返事をしないのでありました。先にも返事をしなかったし、今も返事をしないのであります。主人が入って来た時も面を上げてそれを迎えることをさえしないで、かえってその打伏した袖の下から歔欷《すすりなき》の声が、ややもすれば高くなるのでありました。
「お前は、また泣いているな」
と言って能登守は眉をひそめて、お君の姿を可憐《いじ》らしげに見下ろしたまま立っているばかりであります。
「お殿様」
お君は泣きじゃくりながら、やはり泣き伏したままこう言いました。
「どうぞ、あちらへいらしって下さいまし、ここへおいでになってはいけませぬ」
精一杯にこう言って、あとは喚《わっ》と泣き出すのを堪《こら》えるために、ワナワナと肩が揺れるのが見えます。
「わしが呼んでもお前が来ないから、それでお前のところまで来た」
と能登守は言いわけのように言って、立去ろうともしません。
「御前様《ごぜんさま》」
お君は歔欷《すすりなき》の声で再び主人を呼びました。そうしてこころもちあちらを向いて、
「わたくしはお暇をいただきとうござりまする」
「暇をくれい?」
能登守は、さすがにお君の突然の言いぶりに驚かされたようであります。
「お前はいつまでもこの邸にいたいと言うたのではないか」
「わたくしは……わたくしはいつまでもお殿様のお傍に置いていただきとうござりまする、そのつもりで喜んでおりましたけれども、今となりましては……」
お君はこれまで言って情が迫ったように、もう言葉がつげないで、身を震わして泣いているばかりであります。
「さあ、今となってはお前が切れたくても、わしが許さぬ」
能登守の言葉にも顫《ふる》えを帯びていました。
「いいえ」
とお君の返事は存外に冷やかでありました。そうして頭を左右に振ったのは、それは前のように感情が迫ったのではなく、明らかに拒否の意志を含めたものでありました。
「どうぞ、あちらへおいであそばして下さいまするように。ここは殿様のおいであそばすところではござりませぬ」
「わしはお前にまだ話したいことがあって来た」
「いいえ、もう何もお伺《うかが》い申しますまい、わたくしはお暇をいただく身分の者でござりまする、お暇をいただけば、御主人でもなく召使でもないのでござりまする」
「君、お前は聞きわけがない」
「どう致しまして、わたくしは、もう何もお伺い申すことはござ
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