い》らも咽喉《のど》が乾いたわい」
 米友は釣瓶《つるべ》を投げて水を汲み上げてから、背中の人を卸《おろ》して、
「どうだい、水を一杯飲んで、気を確かに持って、一言《ひとこと》名乗って聞かしてくんねえな、お前はどこの者で何という名前だか、それを一言《ひとこと》いって聞かしてもれえてえんだ」
 いま、米友が背中から卸して水を飲ませようとしているその男は幸内でありました。けれども幸内は、米友の知合いではありません。ムクはよく知っているけれども、口を利くことができません。
 幸内はまだ生きていました。生きている証拠には水を飲めと言われて、しきりに口を動かしているのでもわかります。またその水を飲みたがっていることは、咽喉の鳴る音でも推察することができます。けれどもその水を飲むべく気力がありません、手も利きません、身体も動かすことさえできませんでした。
「仕様がねえなあ、それじゃ俺らが今、口うつしに飲ましてやるから」
 米友は口うつしに幸内の口へ注ぎかけました。幸内はふるえつくようにしてその水をゴクリゴクリと飲みました。
「待っていろ、もう一杯飲ましてやる」
 米友はまた口うつしにして幸内に水を飲ませました。幸内の口が、もうたくさんだという表情をして米友の口から離れるまで、水を飲ませてやりました。
「ちっとは元気がついたかい。いくらか元気がついたら、お前の所番地を言ってみねえな、そうすればそこまで俺《おい》らが送ってやるよ」
 しかしながら、幸内はその返事をしたくて咽喉をビクビクと動かすのだけれども、ついに言葉を聞き取らせることができません。
「まあ、いいや、ムクが知ってるだろう、ムクがお前の家を知っているだろうから」
と言って、米友は幸内を抱き直して、またも自分の背中へ廻そうとしました。米友が幸内を負《おぶ》って来た帯は、神社の鰐口《わにぐち》の綱をお借り申して来たものであります。米友はその綱を探って背負い直そうとした時に、
「あッ、冷たくなっちまったぞッ、冷たくなっちまったぞッ」
と叫びました。そうして幸内の手首から、あわただしく胸元へ手をやって、
「いけねえいけねえ、咽喉へ痰《たん》が絡《から》まってらあ、さあいけねえ」
 米友は狼狽《うろた》えました。
「おいおい、冗談《じょうだん》じゃねえ、死んじまっちゃいけねえよ、せっかくムクと二人で助け出して来たんだ、いま死んじまっちゃあなんにもならねえよ、もう少し生きてろやい、もう少し生きてろやい、おーい、おーい」
 米友は幸内の耳元へ口をつけて大声で呼びました。それにもかかわらず幸内は返事をしませんでした。返事をしないのみならずそのままで、だんだん冷たくなってゆくばかりでありました。
「冗談じゃあねえ、死、死、死んじまっちゃあいけねえよ」
 米友は何と思ったか、棒を腰に挟んで、幸内を引担いでドンドンと駈け出しました。無論ムクはそれに劣《おと》らず走《は》せ出しました。

         十

 その夜の騒ぎが、駒井能登守の許《もと》へ注進されると、能登守は衣裳を改めて出勤し、役向の差図をしました。
 それが済むと能登守は自分の邸へ帰って来ました。邸に帰って、客間の中に柱を負うて一人で坐っていました。前には桐の火鉢を置いて、それには炭火がよく埋《い》けてあります。そこへ坐って憮然《ぶぜん》としていた能登守の面《かお》には、なんとなく屈托の色が見えます。なんとなく心の底に心配が残っているもののようです。
「君、お君」
と、やがて能登守は、あまり高からぬ声でお気に入りのお君の名を呼びました。いつもならばその声を聞いて、直ぐに次の間から返事のあるべきお君の声が聞えませんでした。
 能登守は重ねて呼びはしませんでしたけれども、所在なさそうにホッと息をつきました。斯様《かよう》に物案じ顔に頼りのない様子は、能登守としては珍しいことであります。
 破牢の責任をそれほど強く感じたものか、それとも江戸表に残し置いた奥方の病気が急に重くなったのでもあるか、そうでなければほかに何か軽からぬ心配事が起るでなければ、こうまで打沈むはずはないのであります。
 と言っても、そのほかに能登守を憂《うれ》えしむべきほどの大事は思い当らないのであります。神尾主膳の一派は最初から能登守を忌《い》み嫌うて、これが排斥運動を企てつつあることは、能登守も知らないではありませんでした。けれどもそれは能登守が決して相手になりませんでした。相手にならない者に喧嘩を売りかけることもできません。
 甲府に来て以来の能登守は、政治向きのことにはほとんど口を出しませんでした。旧来の組織に一を加えようとも二を引こうとも何ともしませんでした。支配は先任の太田筑前守の為すがままで、自分はただ調練と大砲の研究ばかりやっていました。それですから、かえ
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