来たがるというのが、よくよくの因果であります。
米友が棒を振り廻せば犬は心得てそれを避け、棒を控えていれば懲《こ》りずまたすぐに傍へ寄って来て、吠えてみたり、鼻を鳴らしてみたり、身体を擦りつけようとしてみたり、ずいぶん人を食った犬としか思われません。米友はばかばかしいやら腹が立つやらしてたまりません。
「狂犬《やまいぬ》だろう、打《ぶ》ち殺してくれべえぞ!」
打ったり払ったりするだけでは我慢がなり難くなったから米友は、殺気を含んで棒を振いました。その棒の下にあって犬はいっそう声高く吠えました。
「おや?」
米友は振り上げた棒を振り下ろすことなしに、この時ようやく犬の声音《こわね》を聞き咎《とが》めました。犬は透《す》かさずその米友の足許へ寄って来ました。
「待て待て、手前の声は聞いたことのあるような声だ。ムクじゃあねえか、ムク犬じゃあねえか」
犬はこのとき鼻息を荒くして、米友の腰へ絡《から》みつきました。
「いま提灯をつけるから待っていろ、もし手前がムクだとすれば、俺《おい》らは嬉しくてたまらねえんだ」
米友の腰につけた小田原提灯は消えていましたけれど、幸いにこわれてはいませんでした。その中には火打道具も用心してありました。
果してその犬はムクであります。
ほどなく宇治山田の米友とムク犬とは、嬉《うれ》し欣《よろこ》んでその場を駈け出しました。
しかし、例の靄《もや》は少しも霽《は》れる模様はなくて、いよいよ深くなってゆきそうであります。その靄の中で、あっちでもこっちでも、破牢、破牢、という声が聞えるのでありました。
今や、米友にあってはそれらの声は問題でなくなりました。辻斬も牢破りも今はさして米友の注意を惹《ひ》くことがなく、ただムクの導くところに向って一散《いっさん》に走るのみでありました。
ムクの導くところ――そこにはお君がいなければならないのであります。
町筋はどうで、道中をどう廻ったか、米友はトンと記憶がありません。米友にあっては、ただムクを信じてトットと駈けて行くばかりであります。
「ムクやい、どうした」
暫くして米友は足を止めました。それは今まで先に立って走っていたムク犬が、急にあるところで立ち止まったからであります。
立ち止まったムク犬は、しきりに地を嗅ぎはじめました。地を嗅いでいたが何と思ったのか、真直ぐに行くべきはずの道を横の方へと鼻先を持っていくのであります。
「ムクやい、どこへ行くんだ」
米友は腰なる小田原提灯を外《はず》して、ムクの行く先を照して見ました。もちろん、その通りの靄でありましたから、提灯の光も、足許だけしか利きませんでした。利かないけれども、米友はその提灯を突き出しながら、地を嗅ぎ嗅ぎ横へ外《そ》れて行くムク犬のあとを監視するように跟《つ》いて行きました。これはどっちも前のように勇み足ではありません。
「ムクやい、手前、道を間違えやしねえか、これ見ねえ、ここはどっちも松並木で、それ並木の外は藪《やぶ》で、その向うは畑になってるようだぜ、いいのかい、こんなところに君ちゃんがいるのかい、道を間違えちゃあいけねえぜ」
米友は、小田原提灯の光の許す限り、前後左右を見廻しました。それにも拘らずムクは、やはり地を嗅ぎながら、その松並木の横道を入って行くことを止めないから、米友もぜひなくそのあとを跟いて行きました。
暫くすると、一つの祠《ほこら》の前へと米友は導かれて行きました。その祠は荒れ果てた小さなものであります。社殿の前までムク犬に導かれて来た時に、米友は小田原提灯を差し上げて、
「こりゃ天神様だ、天神様の社《やしろ》に違えねえが、その天神様がどうしたんだ」
米友は小田原提灯を翳《かざ》していると、やっぱり土を嗅いでいたムク犬は、急にその巨大な体躯《からだ》を跳上《はねあ》げて、社の左の方から廻って裏手へ飛んで行きました。
「ムク、待ちろやい」
米友は急いでそのあとを追いかけて、この荒れたささやかな天満宮の社の後ろへ廻って見ると、後ろは杉の林であります。
米友はムクを信じています。ムクの導いて行くところにはいつも重大の理由も事情も存するということを、米友はよく信じているが故に、五里霧中の上の闇の夜の杉林の奥をも、疑わずに踏み込んで行き得るのであります。
ほどなく宇治山田の米友が、この杉の林を出て来た時には、背中に一人の人を背負っておりました。小さい米友の身体《からだ》に大の男を一人背負って、濛々《もうもう》たる霧と靄と闇との林を出て来ると、例のムク犬は勇ましく、またも前の天神の祠から松並木を、先に立って案内顔に走って行くのであります。
「待てやい、ムク」
道の傍に井戸を探し当てた米友は、その前へ棒を突き立てて、
「この人に水を飲ませてやりてえんだ、俺《お
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