御金蔵破りの嫌疑があって、牢から出られない。聞くところによれば、江戸で島田虎之助という先生の門人で直心陰《じきしんかげ》を学び、それから宝蔵院の槍の極意に達し、突《つき》にかけては甲府城の内外はおろか、お膝元へ出ても前に立つ者は少なかろうとのこと」
「それほどの人が、御金蔵破り? そりゃ冤罪《えんざい》であろう、我々の力でどうかしてその冤罪を晴らしてやる工夫はないものかな」
 彼等は靄の中を歩いているのだか、立ち止まっているのだか、わからないほどであります。
 徽典館《きてんかん》の少年たちの一組は、こんなことを話し合いながら靄の中を歩いて行きました。
 闇がいよいよ黒くなるところへ、靄がいよいよ濃くなってゆくのでありました。靄というけれども、やはり霧といった方がよいかも知れません。或いは雲という方が当っているかも知れません。天地が墨の中へ胡粉《ごふん》を交ぜて塗りつぶしてゆかれるようです。
 彼等の一組が御代官陣屋の方を指して行くと、
「あ、赤児の泣く声が聞えるではないか、諸君」
と言うものがありました。
「なるほど」
と言って耳を傾けました。なるほど、赤児の泣く声がするのであります。それも家のうちで泣いているならなんのことはないけれど、家の外、町から町を泣き歩いているもののようであります。
 だから少年たちはまた一かたまりになって、
「ハテ、この夜中に子供が泣きながら道を歩いていようとは……」
「モシモシ」
 その厚くて濃い闇と靄の中から、不意に言葉がかかりました。それは子供の言葉ではなく、
「少々承りとうございますがね、わたしの女房はどこへ行ったんでございましょう、わたしのおかみさんはどこへ参りましたろう、まだ帰って参りませんよ」
 少年たちは、そのあまりに不意の言葉に驚かされてしまいました。それは寧《むし》ろ怖ろしいくらいで、
「誰じゃ、どなたでござるな」
と誰何《すいか》しましたけれども、それを耳に入れる様子はなく、それとは相反《あいそ》れた方へ行ってしまいながら、
「もしもし、少々物を承りとうございますがね、わたしのおかみさんがまだ帰って参りません、女房はどこへ参りましたろう」
 そこで少年たちは、
「狂人《きちがい》だろう」
「狂人《きょうじん》じゃ」
と言って気の毒がりました。
 その狂人と覚《おぼ》しい男は暫らくして足音も聞えなくなりましたが、やがて前の子供の泣く声が異なった方向で、町から町を筋を引いて歩くように聞え出します。
「危ないものだ、子供を背負うて夜中にああして歩いている、さだめて女房に死なれて、気が狂うたものと見ゆる」
「それに違いない。しかし、このごろのように物騒な時に、ああしてこの夜中を歩くのは、薪を背負って火の中へ駈け込むのと同じことじゃ、怪我《けが》がなければよいが」
「ここへ来れば取押えて家まで連れ戻してやろうものを、向うへ行ってしまったから仕方がない」
「あの男のことばかりではない、我々もまた用心せんと……」
 彼等はこう言って、また歩き出しました。もとよりこの一組の少年たちのうちにも、勇なるものと怯《きょう》なるものとがあります。けれどもこうかたまってみれば、勇なる者にも守る心が出来、怯なるものは勇なる者に同化され、勇怯合せて一丸となった別の心持に支配されるのであります。
 例の子供の泣く声が糸を引いたようにして絶えることしばし。その時、忽然《こつぜん》として耳を貫く物の響が起りました。物の響といううちに、やっぱりそれは活《い》ける物のなせる声でありましたけれど、前のとは違って人の腸《はらわた》にピリピリと徹《こた》えるような勇敢にして凄烈《せいれつ》なる叫びでありました。
「や、あの声は?」
「狼ではないか」
「熊ではあるまいか」
 少年たちはまたも足をとどめたが、その吠《ほ》え落す声をじっと聞きとめて、
「やっぱり、犬のようじゃ」
 いま吠え出したそれはまさに犬の声であります。犬の声ではありましたけれども、尋常の犬の声とは思われません。
 それはさておいて、このおっそろしい[#「おっそろしい」に傍点]闇と靄の晩にも泰平無事なのは、甲府のお牢屋の番人の老爺《おやじ》であります。
 小使の老爺は貰いがたくさんあります。牢の中にいても金を持っている奴は、小使に頼んでいろいろの物を買ってもらうことができる。最初に持っていた金は役人のところへ取り上げられて、必要に応じて少しずつ下げ渡される制度であったが、その少しずつ下げ渡された金で、小使の老爺に頼んで、内々でいろいろの物を買い調《ととの》えるのであります。
 生姜《しょうが》や日光蕃椒《にっこうとうがらし》を買ってもらうものもあります。紙の将棋盤と駒を買ってもらって勝負を楽しむものもあります。武鑑を買ってもらって読むものもありました。お菜
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