《かず》が無いので困る時には、生姜や日光蕃椒のほかに、ヤタラ味噌や煮染《にしめ》などを買って仲間へ大盤振舞《おおばんぶるまい》をするものもありました。また大奮発で二両三両と出して毛布の類を買い込んで、寒さを凌《しの》ぐような贅沢《ぜいたく》なものもありました。袷《あわせ》を一枚買い足して重ね着をする者もありました。
 酒は固く禁じてありましたけれども、それとても小使に頼めば薬を買うというなだいで、焼酎《しょうちゅう》や直《なお》しを買って来てくれます。
 その度毎に小使はコンミッションが貰えます。コンミッションが貰える上に更にその代金の頭を刎《は》ねることもできます。このごろ贋金使《にせがねづか》いというのがこの牢へ入ってから、この小使のうるおいがまた大きくなりました。それですからこのごろの小使は成金で、天下はいよいよ泰平です。
 午後の四時から九時までの間に、お役目だけの役人の見廻りがあります。その時は小使と番人とが、
「お見廻りでござりまするぞ」
と先触《さきぶれ》をして各牢を廻って歩くと、牢内の一同が、
「御苦労さまでござりまする」
と言ってお礼を申し上げるのがきまりになっておりました。
 この成金で、そうして天下泰平であった甲府の牢番も、勤めに在る以上、やはり相当の責《せめ》を尽さねばなりません。
「はははは、二番の贋金使いの弥兵衛たらいう奴は、さすがに贋金でも使ってみようというだけあって話せる奴だわい、お寒いに御苦労さまでございますなんかと言って、袂の裾をふんわりと重くさせる奴さ。それに比べると武士上《さむれえあが》りは、いやに見識が高くって薬の利き目が薄いのは癪《しゃく》だが、それにしても御方便に、おれの持場はみんな客種が上等で仕合せだ」
 提灯《ちょうちん》を持って、眠い眼をこすりながら立ち上り、
「いるかな」
 御定例《ごじょうれい》に提灯をかざして、一番の牢の内を覗《のぞ》いて見ました。
 返事がしないのは、よく寝ている証拠でありましょう。牢番は頷《うなず》いて第二番室の前、
「いるかな」
 また御定例に提灯をかざし、格子の中を覗いて見ましたが、ここでもやっぱり返事がありません。
 天下もあまり泰平過ぎると気味が悪くなるものです。いつも一人や二人返事をするはずのが、一番二番を通して一人も返事をする者がありませんから、牢番もあまりの泰平に拍子抜けがして、なおよく格子の間から覗いて見て、
「おや?」
と言って仰天しました。
 この時分、牢屋の外も、同じように墨と胡粉《ごふん》で塗りつぶした夜の色で包まれていました。
「破牢《はろう》、破牢、牢破り!」
 この声が牢屋の中のすみから起ると共に、牢の内外の泰平は一時に破れてしまいました。
「スワ!」
という騒ぎ。高張《たかはり》がつき提灯がつき、用意の物の具が、物すさまじい音をして牢屋同心の人々の手から手に握られました。
 けれども靄《もや》が深いから、高張も提灯もその光が遠く及ばないのであります。人々の騒ぐのも、ただ電燈の消えた湯屋の流し場の中で騒ぐのと同じことで、おたがいの姿を見て取ることができません。況《いわ》んや破牢の者共は、どの道をどの方向に逃げたのか、サッパリその見当もつきません。
「出合え、出合え」
という声が北の方の外まわりの高塀の下で聞えましたから、同勢はその声をしるべに、同じ方向へ駈けて行きました。
「待て!」
と言う声が聞えました。
「うーん」
とうなる声と共に、ドサリと人の倒れる音がしました。
「どこだ、どっちへ逃げた」
 同勢はその唸《うな》る声と、人の倒れる音を目当として靄の中を進みます。
「捕《と》った!」
「小癪《こしゃく》な!」
 そこで喧々濛々《けんけんもうもう》として一場の大挌闘が起ったようであります。
「提灯を! 高張を!」
 同勢が叫びました。提灯と高張とは一度にそこへ集められました。その光で、あたりの光景が紅《べに》を流したように明るくなりました。そこに一箇《ひとり》の囚徒が阿修羅《あしゅら》のように荒《あば》れています。
 その荒れている囚徒というのはすなわち、宇津木兵馬と室を同じうした、かの奇異なる武士でありました。仮りにその名を南条と呼ばれていた武士でありました。
 南条は左の小脇にまだ病体の宇津木兵馬を抱えながら、右の手と足とを縦横に働かせて、組みついて来る同心や手先や非人を取って投げ、蹴散らして、阿修羅のように戦っているのであります。
 南条は外まわりの総高塀《そうたかべい》を背にして、寄り来る人々を手玉に取りながら、一歩一歩と高塀の方へ押着けられて行くのであります。いや押着けられて行くのではない、自分からジリジリとさがって行くようであります。
 いよいよ南条はその塀際《へいぎわ》までさがった時に、手早く塀の一端へ
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