したものと見えます。
それらを最初にして、いろいろの説が出ました。御岳《みたけ》の奥、金峰山がよかろうというものもありました。或いは天目山を推薦するものもありました。少し飛び離れて駒ケ岳を指定するものもありました。
その山々の名が呼ばれるに従って、いちいちその山の地勢だの、その山から起った伝説だの、そんなことが青少年の口から口へ泡を飛ばして語り合われるから、なかなか山の相場がきまりません。
そのうちに、流鏑馬《やぶさめ》をやろうじゃないかという説も出ました。この説がかなり有力な説になっていきそうでありました。八幡宮で行われる流鏑馬が久しく廃《すた》れているから、それを起そうじゃないかという説は、これらの子弟の説としては根拠もあり理由もある説なのであります。
また一方においては、我々でお能の催しでもしようではないかという温雅な説も出て来ました。それは大した勢力はなかったけれど一部のうちには、なかなか熱心な面付《かおつき》をしている者がないではありません。
議論百出で、容易になんらの決定を見ませんでしたけれども、大体において、近いうち徽典館《きてんかん》の青少年らしい催しをして、大いに元気を揚げようじゃないか、ということに一致したのであります。それで今宵《こよい》出て来たいろいろの議論を参考として、次回の集まりまでに成案を立てるというだけはここできまりました。
それから各自になるべくその主張するところに多くの賛成者を求めようとして、雑談の間に遊説《ゆうぜい》を試みているのもありました。それで夜の更けると共に、席はいよいよ興が乗ってゆくばかりです。
この連中が解散を告げて徽典館の門を出た時分に、黒闇《くらやみ》の夜に例の霧のような靄《もや》がいっぱいに拡がっていました。後なる人は前の人の影をさえ見ることができません。前の人はまた後の人の名を呼んで門の前から三々五々、その志す家路に帰ろうとする時に、はじめてこの青少年たちに警戒の心が起りました。
もう夜が更けている。暗い上に靄《もや》がかかっている。こういう晩に門外へ出ると、そぞろにこのごろの世間の噂の中の人とならないわけにはゆきません。
彼等は言い合せたように、三人五人かたまって行きました。空身《からみ》であるのもあったけれども、竹刀《しない》と道具とを荷《にな》っているのもありました。お能をやりたいと言った少年たちのうちには特に得意の美音で、謡《うたい》をうたい出したのもありました。ましてや間近き鈴鹿山、ふりさけ見れば伊勢の海……なんぞと口吟《くちずさ》んだ時は、いかにも好い気持のようでありました。
どこかで太鼓の音がしています。それは近在の若い者たちが囃《はやし》の稽古をしているものらしい。大胴《おおどう》を入れる音と、笛を合せるのと、シャギリの音までも手に取るように響いて来たものであります。
「あの連中は根気はいいな、寒稽古といって夜徹《よどお》しやっていることがある。太鼓を叩いて笛を吹いて、馬鹿面《ばかめん》を被って踊ることでさえも、あの通りの根気がいる、それで、十年二十年と苦しんでもなかなか上手にはなれぬそうじゃ、況《いわ》んや我々の武芸学問においてをや」
囃の稽古を聞いても、こんなことを言い出すものがありました。
「一生苦しんでも出来ぬ奴は出来ん……と言って一心を籠《こ》めて精を出せば僅かの間にも上達する。拙者はこのごろ、ふと或る人の話を聞いた、歳は僅かに十七、我々とそう違わぬけれど、この甲府城の内外には及ぶものはなかろうとの剣術の達者があるという話を聞いた」
彼等少年軍の多くは足駄を穿《は》いておりました。凍《い》てついた大地をその足駄穿きで、カランコロンと蹴りながら歩いていました。
「そんな人がどこにいる」
前へ進んだのが後ろを振返りました。振返ったけれど、やはりおたがいの姿は見えないのです。
「この甲府にいるにはいる」
「ナニ、左様な人が甲府にいると? それならば教えを受けたいものだ、ぜひ」
やはり前へ進んでいた剣術の道具を荷ったのが踏み止まりました。
「甲府にいるにはいるけれど、居所が変っているから、お紹介《ひきあわせ》をするわけにはゆかんのじゃ」
「居所が変っていると? およそこの甲府の附近であったなら、どこでも苦しくない、行って教えを受けようじゃないか」
「それは我々には行けないところ、先方もまた我々に来られないところだから仕方がない」
「そのようなところがあろうはずがない」
「畢竟《つまり》、この甲府の牢屋の中にいるのだから我々には会えん、また先方も出て来られんのだ」
「甲府の牢屋の中に、まだ少年でそしてそれほどの剣道の達者がいると? いったいそれは何という者で、何の罪で牢獄に繋《つな》がれたのじゃ」
「それは宇津木兵馬といって、
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