にょほうあんや》の中に一人で立ち尽していたのは、その子供の泣く声を聞いたからであります。子供の泣く声が、だんだん自分に近く聞えて来たからであります。
「モシモシ」
と言って、霧のような靄の中から、不意に言葉をかけたものがありました。
それは、竜之助を見かけて呼んだものとしか思われないのであります。ナゼならば竜之助のほかにこの夜中に、ここらあたりを歩いている人があろうとは、竜之助自身も思い設けぬことでありました。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
こう言いながら近寄って来るのであります。
近寄って来るところによって見れば、その背中で子供が泣きじゃくっているらしいことであります。竜之助は、ただ黙って立っていました。
ここにおいても竜之助は、その自身すら、自分に近寄って来る者の心のうちを推《すい》するに苦しみました。
ことにまだ乳呑児《ちのみご》らしいのを背にして、この夜中に、人もあろうに、自分を呼びかける人の心は計られぬのです。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
竜之助は近寄って来る者の足音に耳を傾けましたけれども、その足音は一人の足音です。その背に負うた子供のほかには、何者をも引きつれて来たとは思われません。況《いわ》んやこの男をオトリ[#「オトリ」に傍点]にして、あとから与力同心だの、足軽小者だのいう者が覘《ねら》い寄るというような形勢は更にありませんでした。
「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」
なんらの怖れることと、憚《はばか》ることがなしに、竜之助の刀の下へ、身を露出《むきだし》に持って来る者があります。
「何を聞きたいのだ」
竜之助は憮然《ぶぜん》として、返事をしてしまいました。
「あの、ほかではございませんがね、少々お尋ね申したいと言いますのはね、それは私の女房のことなんでございますよ、私の女房はまだ若くって、なかなか愛嬌があるおかみさんなんでございますよ」
憮然とした竜之助は、ここに至って唖然《あぜん》としました。あ、きちがいだ! 道理で……
「その私の女房でございますがね、それはどこへ行ったんでございましょう、どうもあの女房に出られては、私も困るんでございますがね、なかなか愛嬌があって人好きのする女でございますものですからね、近所の人もみんな賞《ほ》めてくれましたんでございますよ、それで私との仲も好かったんでございますよ、それが急に見えなくなってしまったものでございますから、私も心配なのでございますよ、それに坊やがこうやって泣くものでございますからね、どうかしてモウ一ぺん帰って貰いたいと思うんでございますよ」
ついに竜之助の傍まで来て、その袂《たもと》を持ってグイグイと引きました。
「わしは知らない」
「左様でございますか、なんでも人の話では、良円寺前で斬られたということでございますが、そんなことがあるものでございますか、ねえ、旦那、そりゃ嘘でございますねえ」
続けざまに袂をグイグイと引いてこう言いかけられた時に、竜之助は身ぶるいして、見えない眼でその男の面《かお》を見下ろしました。
甲府に徽典館《きてんかん》というものがありました。これは士分以上の者、または農商のうちでも相当の身分の者の子弟が学問をするところであります。その晩のこと、この徽典館へ多くの子弟が集まりました。多くは前髪立ちのものばかりであります。
この集まりは別段、今ごろ騒がしい辻斬問題と交渉があるわけではありません。ただ時々こうして集まって、青少年の気焔と談話とが賑わしく、また勇ましく語り合われるものでありました。
今、ここで話題になっていることを聞いても、それがこのごろの天下の形勢や、市井《しせい》の辻斬の問題とは触れておりません。
彼等の間の話題は、近いうちおたがいに結束して山登りをしようということの相談でありました。その山登りをすべき山は、どこにきめたらよかろうかということにまで相談が進んでいたのであります。甲斐《かい》の国のことですから、山に不足はありません。多過ぎる山のうちのそのどれを択《えら》んでよいかという評議であります。
「富士山に限る」
と言って大手を拡げたのがありました。それと同時に、富士山は甲斐のものである、それは古《いにし》えの記録を見てもよくわかることである、しかるに中世以来、駿河の富士、駿河の富士と言って、富士を駿河に取られてしまったことは心外千万である、甲斐の者は奮ってその名前を取戻さねばならぬ、なんどと主張しているものもありました。
けれどもこの説は、事柄が壮快であるにかかわらず、事実において問題が残ってありました。
「しからば天子ケ岳へ登ろう」
と主張する者もありました。名前が貴いからそれで、若い人はそんなことを言い出
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