いました。
幸いにしていったん気絶した子供は、医者の来てくれたことによって蘇生して、無邪気な笑い顔を見せるようになりましたけれど、親なる人のゲラゲラ笑いは無制限に放縦なものになってしまいました。人が騒いでいる間に、若い亭主はゲラゲラ笑いながら、フイとどこへか姿を見せなくしてしまいました。
これで小さな八日市の呉服店はつぶれてしまいました。地廻りの若い者たちに岡焼《おかやき》をさせた愛嬌のあるおかみさんと、お世辞のよい御亭主と、その間の可愛らしい子供から成り立った平和な家庭が、根柢から摧《くだ》けてしまいました。
市中の上下は、その惨虐《さんぎゃく》なる殺人者の何者であるかを揣摩《しま》して、盛んに役向《やくむき》を罵りました。役向を罵るばかりでなく、おのおの進んで辻斬退治のために私設の警察を作ろうとしました。
その晩は幸いに何事もありませんでしたけれども、その翌日になると、町の人は気の毒とも悲惨とも言い様のない一つの光景を見せられることになりました。
発狂して親戚に預けられた呉服屋の若い亭主が、その子供を背に負うて何か言いながら、当途《あてど》もなく町を歩いていることであります。
その若い亭主は、どこを目当ともなく歩いていましたけれど、時々休んではゲラゲラと笑います。そうすると背中にいる子供は、それを喜んで、またキャッキャッと笑い興じているのであります。
それらのことを知るや知らずや机竜之助は、ちょうどそれから三晩目の夜中に、そっと躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷を抜け出しました。
頭巾《ずきん》を被《かぶ》り、羽織を着、刀を差して、竹の杖をつくこと例の通りにして、いつのまにか愛宕町《あたごちょう》の東裏へその姿を見せましたが、そこへ来ると境町の方からズシズシと数多《あまた》の人の足音が聞えました時に、竜之助は、時の鐘の櫓《やぐら》の下へ蜘蛛《くも》のように身を張りつけて、その足音をやり過ごしました。
「こんなところが剣呑《けんのん》じゃ」
と言って過ぎ行く一隊の中で、六尺棒を突き立てて暫らく時の鐘の櫓の下に立っている者もありました。
「斬る方では、こんなところが究竟《くっきょう》だけれど、わざわざこんなところへ斬られに来る奴はあるまい」
そんなことを言って行き過ぎてしまいました。これは辻斬を警戒するために組織された一隊の足軽たちと見えます。これをやり過ごすと竜之助は、また静かに櫓の下から出て来ました。
濠《ほり》を渡ると境町の通りであります。甲府の城を右に、例の牢屋を左に、その中の淋しい通りです。そこをズッと市中の繁華な方へ歩んで来るうちにも、竜之助の勘《かん》が驚くべきほどに発達していることがわかります。一町二町先から人の足音を聞き取って、高塀や木蔭に身を忍ばすことの巧妙なのは、さながら忍びの術の精妙から出でたものかとも思われます。
通り過ぐる人を物蔭から測量して、斬って捨つべきか否かを吟味して後、やり過ごして物蔭から身を現わす時は、幽霊が出て来るようであります。
三の廓《くるわ》まで出たけれども竜之助はまだ、しかるべき相手を見出さないようであります。三の廓の留まりを直角に廻って、竜之助は東に向きを変えて歩みました。東に向きを変えるとお城が背になって、牢屋が左になって、行手には長禅寺山が聳《そび》えているのであります。
「ゲープ、寒いなア」
「滅法界《めっぽうかい》寒い」
折助が五人ばかりかたまって来ました。
「芋で一杯飲んで来たが、ここへ来るといやに寒くなりやがった」
「それ、辻斬!」
「やい、嚇《おどか》すない」
ここで黙ってしまいました。言い合せたように身ぶるいをして、
「はははは」
附元気《つけげんき》らしく高笑いをして、牢屋の方へ曲って行きました。
それをもやり過ごして、なおも廓の縁《ふち》を歩んで行った竜之助が、いつしか足を留めたところは、とあるお寺の門の前でありました。
竜之助は小首を傾《かし》げて杖で大地を突いてみました。大地は別に異様な音を立てるではありませんでした。ただこの時分になって、町も廓も一面に霧のようなもので包まれてしまったことであります。さきには聳えて影を見せた日本丸の櫓《やぐら》も、それがために見えなくなってしまいました。いま立っているお寺の門も、その前の竜之助も同じく、その霧のような靄《もや》で包まれてしまいました。
その霧のような靄に包まれた甲府の町の夜は、この時静かなものでありました。その静かなうちに、町の辻々は例によって辻斬警戒の組の者が六尺棒を提げてのっしのっしと過ぎて行くのであります。ただ一つ不思議でならないことは、その静粛にしてしかも物騒なる甲府の町の夜の道筋のいずれかを、子供が泣いて歩いているらしいことであります。
机竜之助が如法闇夜《
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