気がつかないでいたと見えます。
それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の行方《ゆくえ》がわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、狼狽《ろうばい》をはじめましたようであります。
主膳は周章《あわただ》しく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が透《す》く、たまらぬ」
竜之助は座の左を探って、手柄山正繁《てがらやままさしげ》の刀を取り上げました。
「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗な面《かお》をしていたか、醜い面をしていたか、それもわからぬ。若い女であったら何とする、また美しい女であったら何とする、おれはただ斬ればよいのだ、斬りさえすれば胸が透くのだわい。声をしるべに斬った途端に、縋《すが》りついて泣いたからまた斬った、それでこの片腕がおれの羽織にしがみついたなりに残った」
竜之助はその刀に残る血の香に顫《ふる》えつくようでありました。身体もまたブルブルと顫えて、手に持った刀から水が飛ぶようであります。
「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、咽喉《のど》が乾くように人が斬りたい。あの幸内とやらは逃げたそうな、長持の中の窮命人は逃げたそうな、せめて彼でもいたら斬ってみたい、一人では斬り足らぬ。どうしてまた、今宵はこれほどに人が斬りたいのだ」
竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているのでありました。それは血を飲みたいがために乾いた咽喉であります。
「ああ、甲府は狭い、一夜のうちに二人と人が斬れぬ、江戸へ出たい、江戸へ出れば、好みの人間を好むように斬ることができるのだ――今宵斬れば明日の晩は遠慮せにゃならぬ。甲府の土地にはおられぬ、江戸へ出る工夫はないか。江戸へ出て思うままに人を斬らねば、おれは生きてはおられぬのだ」
彼は狂する者のように、刀の血の香いを嗅いでいるのでありました。
九
その翌朝、甲府の市中がまた沸き立ちました。それはまたしても辻斬があったからであります。
その騒ぎ方と驚き方と怖れ方とが、今までよりも一層甚だしかったのは、斬られたのが女であったからであります。今まで斬られた者のうちに女は一人もありませんでした。昨夜斬られたのは女でありましたからです。
それは八日市《ようかいち》へ呉服屋を出して、いくらもたたない若夫婦でありました。その女房が良円寺の門の前で斬られました。それはこの暁方《あけがた》のことでありました。
この呉服屋の小店《こだな》の若い夫婦の間には、今年生れの可愛い男の子があって、虫のせいかその夜中に苦しがって気絶してしまったのを、若い女房は、その夜中であることも、このごろ辻斬が流行《はや》るというようなことも知っておりながら、考え直す余裕がなく、良円寺の内に住んでいるお医者を迎えに行きました。
夫なる人もまた、自分が女房に代って医者を迎えに行くことさえ気がつかなかったくらいでしたから、気絶した子供を抱えて、前後を顛倒して為すべき業《すべ》を知らなかったものであります。
そのうち隣家の人も来てくれましたけれど、女房は帰らないし、医者も駈けつけてくれません。
隣家の人たちが提灯をつけて、良円寺まで迎えに行った時から、この騒ぎが始まったものであります。
女房は帰らないはず、医者も来てはくれないはず――その若い女房は良円寺の門前に斬られておりました。
思慮のない人々は、その驚愕と戦慄と恐怖とをそのまま生《なま》で持って来て、若い亭主の前へブチまけたからたまりません、若い亭主はその場で即座に発狂してしまいました。
抱いていた子を投げ出してゲラゲラと笑い出しました。
来てくれた人々を見てもゲラゲラと笑いました。釣台で運んで来たその女房の無惨《むざん》な亡骸《なきがら》を見た時もゲラゲラと笑
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