に》が出来ました、火事になりました」
「あの女軽業の小屋へ、城内のお方が押しかけてあの騒ぎ? それは大変、こうしてはおられませぬ」
 お君は三味線を投げ出して立ちかける。その袖を神尾主膳は押えて、
「あの騒ぎの中へ一人で行っては危ない」
「危なくてもよろしうございます、こうしてはおられませぬ、どうぞお暇を下さいまし」
 神尾主膳の袖を振り切ったお君は、三味線も撥《ばち》も投げ出して跣足《はだし》で飛んで帰りました。
「ああ、大変なこと、火がついてしまった、こんなことならモット早く来ればよかった」
 お君の来て見た時分には、小屋の裏手へ一面に火が廻っています。表へ廻ると、小屋の中から雪崩《なだれ》を打って押し出す群集。
「あれまあ、親方さんが担がれて。力持のおせいさんまでがああして。まあまあ、みんな娘たちが連れて行かれてしまう、なんという乱暴な人たちでしょう。これはまあどうしたんでしょう、誰も助けて上げる人はいないのかしら。どうしたものでしょうね。あれあれ、どこへ連れて行かれるんでしょう。わたしはまあ、どうしたらいいでしょう」
 その時に、猛然として火の中より起るムクの声。
「ああ、そうだ、ムクだ。ムクは何をしているんだろう、みんながあんな目に会っているのに、ムクは何をしているんだろう。おおそうそう、ムクは芸が済むと、いつもあの鉄の棒につながれていたから、ことによると、あのまんまで誰も気がつかないで、ムクを鎖で繋ぎ放しにしておくんじゃないかしら。それだといくらムクだって動けやしない、みんながあんな目に遭っても助けてやりたくても助けられやしない。きっとそうだ、ムクは繋ぎ放しにされてあるに違いない。そんならムクは人を助けるどころではない、自分がこの中で焼き殺されてしまうじゃないか、かわいそうに。ムクがかわいそうだ、ムクや、ムクや」
 お君はムクの名を連呼して、驀然《まっしぐら》にこの火の中へ飛び込んでしまいました。煙に捲かれることも、火に煽《あお》られることも考える余裕はなくて、お君は火の中へ飛び込んでしまい、
「ああ、ムク、怪我をしないでいておくれかい、鎖につながれているだろうね、今解いて上げるから待っておいで」
 袖で面《かお》を隠して烟の中に駈け込んだお君の手が鎖にかかると、ムクは五体が張り裂けるばかりの身震いをしました。
「ああ、早く逃げよう、逃げておくれ」
 難なく鎖が外《はず》されるとお君とムクとは、丸くなってこの小屋の火と煙の中から逃げ出しました。お君には、もう逃げ場がわからなかったがムクはよく知っている。犬と人とは辛《かろ》うじて火の外へ逃げ出して、
「わたしはいいから、早く親方さんや、娘たちを助けておやり、わたしはもはや大丈夫だから早く、お前、みんなの娘たちを助けて上げておくれ、悪い奴に担がれて向うの方へ連れて行かれたんだから、早く……」

         十

 女軽業の連中を引っ担いで来た折助どもは、闇に紛《まぎ》れて荒川の土手、葭《よし》や篠《しの》の生えたところまで来てしまいました。
 土手の蔭へ女軽業の連中を珠数《じゅず》つなぎにして置いて、
「さあ、大変な騒ぎになってしまった、これから先をどうするのだ、まさか焼いて喰うわけにもいくめえ、そうかと言って、ここまで持って来たものを、ほうりっぱなしにして逃げて行くと、娘たちが蚊に食われてしまう、縄を解いてやれば、さいぜんのように荒《あば》れ出して始末にいかねえ、なんとか面白い工夫はないか」
「なるほど、こうしておいて蚊に食わせてしまうのも残念なわけだ、縄を解いてやれば荒れ出す、そのうちにもこの力持と来た日には、三人や五人では手に負えねえ、また身の軽い方は商売柄だから、ここらの田圃《たんぼ》へ突《つ》ん逃げたら、蝗《いなご》を捕まえるような手数がかかる、どうしたものだ」
「いいことがあるわい、一度に縄を解いてやると物騒だから、一人ずつ縄を解いてやろうじゃねえか、ここにいるおれたち仲間と、女の仲間と数を読み合わせておいて、籤引《くじびき》とやろうじゃねえか、籤を引き当てた順で、この女たちを片っ端から一人ずつ連れて、どこへでも勝手なところへ届けてやることにしたら面白かろうじゃねえか」
「そいつはいいところへ気がついた、籤引にしよう。籤引はいいけれど、この力持なんぞを引き当てたら災難だ、下手なことをやればこっちがかえってギュウと潰《つぶ》されてしまうんだから、あんまりジタバタさせねえように、ものやわらかに道行《みちゆき》という寸法に行きてえものだ」
「ものやわらかに道行という寸法に行けばそれに越したことはねえが、おたがいに和事師《わごとし》という面《つら》でもねえし、とにかく、籤としてみよう、籤を引いてみた上で、また何とか面白い趣向があるだろうよ」
「籤を引く前にこういう趣向はどうだ、手荒いことをしなくても、女を逃さねえようにする法がある、それは裸《はだか》にして置くことだ、裸にしておけば、女は恥かしがってどこへも逃げやしねえ、そうしておいてから籤を引いた方がよかろう」
「なるほど、おれたちの仲間には智恵者が多い、裸にしておけば女は暗いところにいたがって、明るい方へ出るのをいやがる、それはいいところへ気がついた、それはいい心がけだ」
 折助はとうとう、こういう決議をしてしまいました。
「そうきまったら、ゆっくりするがいい、誰か火種を持っていねえか、一ぷくやってから仕事にかかりてえ」
 この時、一蓮寺の境内で盛んに燃えている見世物小屋の火の手を快《こころよ》げに折助どもが見返って、それから悠々仕事にかかろうと言っている途端に、
「あっ、何だ、どうしたんだ、えっ、どうしたと言うんだ、痛い!」
 暗中摸索《あんちゅうもさく》、折助どもがひっくり返り且《か》つひっくり返り、何をどうしたのか一時に混乱して騒ぎ出しました。
「やっ、狼だ、狼だ、狼が出て来やがったぞ、ソレ大変だ」
 山国にいると狼の怖るべきことを誇張して聞かされます。その狼の来襲と聞いて、さしもの折助どもが総崩れに崩れ立ったのは無理もないことです。鳥の羽音でさえ大軍を走らすのだから、狼の一声が折助を走らすのはまことに無理もないことでした。
 事実また、この真暗な中へたしかに真黒な怪物が音も立てずに飛び込んで来て、ヒラリヒラリと飛び違えながら、当るを幸いに折助を噛《か》みつぶし噛みつぶして廻る早業《はやわざ》は、たしかに類を呼ぶ千疋狼の類《たぐい》が、よき獲物ござんなれと、一挙に襲いかかったものとしか思われません。
 それ狼! と言って総崩れに崩れて逃げ出したから、まだ幸いでした。もしぐずぐずしていて、それは狼ではない、犬だ、なんぞと正体を見届けたつもりで踏み止まろうものならば、挙げて一人も残さず折助が噛み伏せられてしまったに違いない。それでも一人か二人の死人を残し、多数の怪我人を出して、逸早《いちはや》くこの場を逃れ得たのが幸いでありました。
 しかし、かわいそうに軽業の女たち、折助は逃げ去ったが今度はいっそう怖ろしい骨までしゃぶる獣、それの襲撃と聞いて歯の根が合わなくなりました。けれどもその怖ろしい獣は、存外、女たちにはおとなしくありました。
 縛られて歯の根の合わない女たちの傍へ寄って、クフンクフンと鼻を鳴らして狎《な》れて来るのが不思議であります。
「おや、ムクだよ、ムクが来てくれたんだよ、ムクが助けに来てくれたのだよ」
 親方のお角がまずこう言って叫び出した時に、女たち一同の恐怖の念が歓喜の声と変りました。
 真先にお角の身にかけられた縄に牙《きば》を当ててグイと引くと、お角の縄は無造作《むぞうさ》に外《はず》されました。
「まあ、ムク、よく助けに来てくれたねえ、ほんとにお前はわたしたちの命の親だよ」
 お角はムクの首を抱えてしまって、さすが気丈な女が声を揚げて泣きました。一人の身が自由になれば、あとはみんな楽に解放されてしまいます。
 こうして美人連は、ムクに助けられて再び一蓮寺の境内へ帰って来た時に火事は鎮まったけれども、余炎はまだ盛んなものでした。火消も来たり役人も来たりして騒動はスッカリ納まってしまいましたが、お君の姿をどこへ行ったか見出すことができません。

         十一

「それじゃ何かい、どうしても江戸へ出かけるのかい」
 宿で七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]の会話。
「兄貴、いろいろとお世話になったが、江戸へ出て一旗《ひとはた》揚げるつもりだ。がんりき[#「がんりき」に傍点]もここらが年貢の納め時だから、小商売《こあきない》の一つも始め、飯盛上《めしもりあが》りの女でも連合《つれあい》にして、これからは温和《おとな》しく暮して行きてえものだと思わねえこともねえが、天道様《てんとうさま》がそうは卸《おろ》してくれめえから、とてものことにまた逆戻りで、畳の上の往生は覚束《おぼつか》ねえだろう。どっちが早いか知れねえが、なにぶんお頼み申すよ」
「なるほど、お前も腕一本取られたのがあきらめ時だ、江戸へ落着いたら、そんなことで畳の上の往生を専一に心がけてくんねえ。もしまた、自分はそのつもりでも、世間が承知しねえ時はまたその時の了簡《りょうけん》だ」
「俺もその了簡で、これから生れ変るつもりだ」
「餞別《せんべつ》というほどでもねえが、裏街道を通って萩原入《はぎわらい》りから大菩薩峠を越す時に、峠の上の妙見堂から丑寅《うしとら》の方に大きな栗の木があるから、その洞《うつろ》の下を五寸ばかり掘ってみてくれ、小商売《こあきない》の資本《もとで》ぐらいはそこから出て来るだろう」
「せっかくだが、そいつはよそう、悪銭《あくせん》身に着かずということになると幸先《さいさき》がよくねえからな」
「悪銭というのもおかしなものだが、それじゃお前は性質《たち》のいい資本《もとで》を持っているのかい」
「一文なしだ、江戸へ出る小遣《こづかい》もねえくらいのものだ」
「腕もなし、資本もなし、それで真人間《まにんげん》になろうというのはちっと無理だ、いま奉公に出ればと言って、その腕じゃあ誰も使い手はあるめえ」
「なんとかなるだろうよ、運だめしだから、一文なしで出かけて行ってみよう、途中でのたれ死をしたらそれまでよ」
「その了簡ならそれでいい、自分はそれでいいけれど、もし人のかかわり合いで金がなければ男が立たねえというような時節があったら、遠慮なく俺の土蔵から出して使ってくんねえ」
「兄貴、大層なことを言うが、お前の土蔵というのはどこにあるんだ」
「それはいま言う裏街道では大菩薩峠の上、青梅宿《おうめじゅく》の坂下、江戸街道の丸山台、表の方では小仏峠《こぼとけとうげ》の二軒茶屋の裏の林の中と、府中のお六所様《ろくしょさま》の森の後ろと日野の渡し場に近いところ。まあこの絵図面を見ておくがいい、江戸から持って来た金は裏の方へ蔵《しま》っておく、甲州で稼《かせ》いだのは表の方へ預けておくんだ、幾らになっているか自分でもその額はわからねえが、ああしておいても利息がつくわけではねえから、入用《いりよう》の時はいつでも出して遣って貰いてえものだ」
「なるほど、兄貴の仕事はなかなか手堅いや、こうして娘をあっちこっちへかたづけておけば、いざという時どこへ飛んでも居候が利く。だが、この絵図面は見ねえ方がよかったな、これを見たために、せっかくの娑婆気《しゃばけ》が立ちおくれをして、どうやらもとのがんりき[#「がんりき」に傍点]に戻ってしまいそうだ」
「俺はそんなつもりじゃねえんだ、手前にこの金を器用に使ってもらえば金の冥利《みょうり》にもなるし、罪ほろぼしにもなるんだから、それで手一杯に地道《じみち》な商売をして、世間に融通をしてもらいてえんだ」
「それじゃ、どのみちこの絵図面は貰っておこう。しかし、これに手をつけるようじゃあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]もやっぱり畳の上では死ねねえ。それじゃ兄貴、これから出かけるから、壮健《たっしゃ》でいてくれ」
「そうか、そうきまったら引留めもしねえが、途中ずいぶん気を
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