つけて、猪や狼に食われねえように」
「裏街道を行くつもりでいたが、夜道は表の方が無事だから、やっぱり表を突っ切ってやろう、今から出りゃ夜明けまでに江戸へ入るのは楽なものだ。そのつもりで、さっき、握飯《むすび》を三つ四つ拵《こしら》えてもらってあるから、あれを噛《かじ》って江戸まで行けば、それから先はお膝元だ。どっちへころげるかがんりき[#「がんりき」に傍点]の運試し、兄貴、またあっちで会おう」
「江戸へ行って居所が知れたら、神田の明神様へ額を納めておいてくれ、め[#「め」に傍点]の字を書いた絵馬《えま》を一枚、そのうらへ処番地を書いて、お堂の隅っこへ抛り込んでおいてくれ、訪ねて行くから」
「合点《がってん》だ」
「おや、表がなんだか騒々しいな」
 二人は言い合せたように耳を傾けて、
「半鐘《はんしょう》が鳴るぜ」
「火事だ火事だと言ってるよ。姉さん、火事はどこだい」
「一蓮寺でございますよ」
「一蓮寺? おや、喧嘩だ喧嘩だと言ってるぜ」
「なるほど、喧嘩らしい、火事と喧嘩とお祭祀《まつり》と一緒に来たんじゃあ事だ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は片一方の手で脚絆《きゃはん》をひねくる、それを七兵衛ははたから穿《は》かせてやって、身軽な扮装《いでたち》が出来上りました。
 二人が外へ首を出してみると、火の子はこの家の上を撩乱《りょうらん》と飛んでいます。

 それとはまた違ったところでその翌日、最初にあの騒ぎの口火を切った役割の市五郎が寝ているところへ見舞に来た金助、
「役割、どうでござんす、痛みますかね」
「うん」
「飛んだ御災難で」
「いまいましいやつらだ」
「役割を見損なって木戸を突くなんて、盲蛇《めくらへび》物に怖《お》じずとはこのことだ。その代り、さんざん、敵《かたき》を取って、やつらを空裸《からはだか》にしてやりましたから、それで胸を晴らしておくんなさいまし。身から出た錆《さび》とは言いながら、あいつらこそ、小屋は焼かれる衣裳道具は台なし、路頭に迷うような騒ぎでてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞をしていやがる、ざまア見ろ」
「狼が出て、ひどい目に遭《あ》ったてえじゃあねえか」
「狼には弱りましたね、怪我あしたやつらは大部屋でいちいち手当をしていますが、片輪者《かたわもの》がだいぶ出来上りそうで、面《かお》を噛み潰されていかにも始末にいかねえのが五六人ありますよ。あんなのこそほんとに、面目玉《めんもくだま》を踏み潰されたとか噛み潰されたとかいうんだろう。それに比べりゃ役割、こちとらは災難が軽い方でござんすよ」
「まあ俺の方は俺の方でいいが、金公、手前こそ命拾いをした上に、俺の命を拾ってくれたんだから、廻《めぐ》り合せがよく出来ている」
「役割から言いつけられて、神尾の殿様の様子を見ようと石灯籠の蔭で隙見《すきみ》をしているところを取捉《とっつか》まって、すんでのことに息の根を止められようとするところを不意にあの騒ぎで、神尾の殿様も、こちとらをかまっちゃいられず、急にお立ちとなってしまったから、命拾いをしたつもりで騒ぎの方へ飛んで行ってみた時分には、人間の騒ぎは済んだけれども、火の威勢がばかに強くて、通り抜けられねえから、うろうろしていると役割の死骸……じゃあなかった、役割が打倒《ぶったお》れてウンウン言っておいでなさるから、こいつは大変だと肩に掛けて引っぱって逃げると、拾い運のいい日はいいもので、役割の命を拾った上に、もう一つの拾い物。それはこういうわけなんですよ、わっしが役割を肩に引っ掛けて、煙に追蒐《おっか》けられながらあの椎《しい》の大木のところまで来ますとね、そこにまた人間が一つ倒れているんです。尤《もっと》も今度の人間は役割の前だが、前に拾ったのよりもずっと綺麗《きれい》なんですから、それこそホントウの拾い物で、その時、わっしはどうしようかと考えましたね。椎の大木の下に倒れていたのは綺麗な女の子、女軽業の中でお君といって道成寺を踊る評判者、それがやはり役割と同じこと、死んだようになって倒れているのを見つけたものですから、わっしはそこで考えたんで。いっそのこと、役割を抛《ほう》り出してこの娘に乗り換えた方が得用《とくよう》だと、すんでのことに役割の方を諦《あきら》めてしまおうかと思いましたよ。まあ怒っちゃいけません、一時はそう思いましたけれど、本来わっしどもも善人ですから、そんな薄情なことはできません、と言って一人で一度に二人の人を助けるわけにはいきませんから、役割を大急ぎで稲荷《いなり》のところまで担《かつ》ぎ出しておいて、それから取って返して、その女の子を首尾よく担ぎ出しました。が、この方がよっぽど担《かつ》ぎ栄《ばえ》がしました。まあまあお聞き下さいまし、その女の子はわっしの働きでいいところへ隠しておきますよ。あいつはね、人質《ひとじち》になるんですから、大事な代物《しろもの》ですよ。役割がよくなりなすったら、御相談をするつもりでわっしがいいところへ隠しておきますがね、役割、これが癒《なお》ったら、あいつを妾にしておしまいなさいまし」

         十二

 宇津木兵馬が単身で、白根の山ふところを指して甲府の宿を出かけたのは、一蓮寺のあの騒ぎの翌日のことでありました。
 秋もすでに晩《おそ》く、国をめぐる四周《まわり》の山々は雪を被《かぶ》っています。風物と人の身の上を考えると兵馬にも多少の感慨があります。このたびこそはと思うて、いつも心は勇むけれども、旅から旅を歩く間にはずいぶん果敢《はか》ない思いをするのです。
 兵馬はこの頃になってようやく、七兵衛の挙動に不審の点を発見してきました。片腕を落されたがんりき[#「がんりき」に傍点]という男との話しぶり、その調子が自分らと話をするのとはだいぶ違ったところがある。七兵衛の挙動に合点《がてん》のゆかぬ節々《ふしぶし》を感づいてみると、そこにもまた多少の心淋しさが湧いて来ないわけにはゆきません。
 そこで、このたびの山入りも七兵衛には置手紙をしただけで出かけてしまって、白根の山めぐりをしてから後は、また次第によっては東海道筋へ廻るのだなと思いつつ歩いて行きました。
 一蓮寺の境内を通りかかって見ると、どうでしょう、昨日あれほど賑《にぎお》うた見世物小屋のあたりは、すっかり焼けてしまって、祭礼も臨時休業のような姿で、焼跡のまわりには、消口《けしぐち》を取った仕事師の連中が立ち働いている有様を見て、昨夜の火事はこんな大きなことになったのかなと、舌を捲きながら通り過ぎてしまいました。それから荒川の土手のところを歩いて行くと、土手の上の雑草が踏み躪《にじ》られて、血痕《けっこん》があちらこちらに飛んでいます。
 兵馬は、それがまさしく人間の血であるらしいから少しく驚かされました。人間の血であってみると、四辺《あたり》の草木の荒された模様から見て、よほどの人数が入り乱れて争ったものとしか見えません。祭礼で気が立ったあまり、ここで血気の連中が大格闘をやったものだろうと、兵馬は心の中で推察しました。
 これは昨夜の折助《おりすけ》の狼藉《ろうぜき》と女軽業の美人連の遭難、その血の痕《あと》というのはムク犬の勇猛なる働きの名残《なごり》であることは申すまでもありませんが、その風聞《ふうぶん》は兵馬の耳へはまだ入っていませんでした。
 その土手のところも通り過ぎ、竜王村というところへ出ようとする広い畑の中道で、
「頼むよう、助けてくれ!」
 白昼とはいえ、人通りのあまりないところで助けを叫ぶ人の声、
「頼む! 頼む! 助けてくれ」
 足を留めて見ると、およそ二町ばかりを距《へだ》てた道の傍らの柿の木と覚《おぼ》しい大きな木の上で、しきりに助けを呼んでいる者がある。
 これはおかしい、木の上で、ひとりで呼んでいる。気狂《きちが》いではあるまいかと兵馬は思いました。木の上に登って助けてくれというのは、たいてい大水の場合に限るようです。下を見れば水も何もありはしない、尋常平凡な畑道の中で、木の上から助けを呼ぶのはおかしいと思いながら、宇津木兵馬はその方へ急いで行って見ると、木の下に真黒な動物。
 なるほど、犬に逐《お》われたな、狂犬《やまいぬ》だろう、大きな犬だ、あれに逐いつめられて木の上へ登って、そこから助けを呼んでいるというのは笑止《しょうし》なことだ、その声を聞けば子供でもないようだが、大の男が犬に逐われて助けてくれは、いよいよ以て笑止なことだと、兵馬は微笑しながら木の下へ近づくと、
「どうか助けて下さい、その犬を追い払って下さい、狂犬《やまいぬ》でございます。この通り向脛《むこうずね》を掻払《かっぱら》われて、着物なんぞもズタズタでございます、すんでのことに命を取られるところを、やっとここへ逃げ上ったんでございます、そこに附いていられちゃあ逃げることができません、どうか犬を追い払っておくんなさいまし、助けておくんなさいまし」
 木の上にいた男は半狂乱で叫んでいます。
「叱《しっ》!」
 兵馬が犬を叱《しか》ると、犬は首を振向けてブルッと身を慄《ふる》わせました。
 その時、
「見たような犬だ」
 兵馬は一見してその非常なる猛犬であることを知り、同時にまたどこかで見たことのあるような犬だとも思いましたけれど、咄嗟《とっさ》にはそれと思い当ることもありません。
「叱!」
 兵馬は小石を拾って覘《ねら》いをつけると、犬はまた後退《あとずさ》りして、兵馬の面《かお》を睨《にら》みながら唸《うな》る。
「叱!」
 兵馬は石を振り上げて追う。犬は少しずつ後退り。
「どうかその犬をお斬りなすって下さい、お腰の物で二つにぶった斬ってやっておくんなさいまし、とてもとても、石なんぞで驚く犬じゃございません、斬ってしまわなけりゃ駄目でございます、どうかお斬りなすっておくんなさいまし」
 木の上では男が喚《わめ》く。
「エイ」
 兵馬が打った石礫《いしつぶて》、猛犬の額に発矢《はっし》と当る。犬は一声高く吠えて飛び退き、爛々《らんらん》たる眼《まなこ》を以て遠くから兵馬を睨む。二つ目の石を兵馬が振り上げた時に、何と思うたか犬はクルリと廻《めぐ》って、兵馬の面《かお》を睨みながら鷹揚《おうよう》に後ろへ引いて行く。犬は兵馬の面とその手中の石とを見比べながら、徐々《しずしず》と引上げて行く態度、ちょうど、名将が戦い利あらずと見て、味方を繰引《くりび》きに引上げる兵法がこの態度であろうと、兵馬は敵ながら獣ながら、その退却ぶりの雄大にして痛快なのに感心せずにはおられませんでした。上杉謙信が退却する時にはこんな陣立《じんだて》であろうかとさえ思わせられました。
「石なんぞで驚く犬じゃございません、ぶった切っておくんなさいまし」
 木の上でガムシャラに叫んでいるにかかわらず、兵馬はこの石で犬を逐い、犬はついに兵馬に逐われてどこへか行ってしまいました。
「どこの畜生だか知らねえが、人を脅《おどか》しやがる畜生だ、この近所ではついぞ見かけたことのねえ畜生だが、いやはや、馬鹿と狂犬《やまいぬ》ほど怖いものはないと太閤様が申しました」
 木の上から下りて来た男を何者かと見れば、これはさきほど、役割の市五郎を見舞った折助の金公でありました。さすがきまりの悪い面《かお》をして、それでも兵馬に礼を述べるより先に犬の悪口をはじめます。
「なんだって旦那、わっしがこの村へちっとばかり用事があって甲府から出かけて来ると、そこの森の中から、のそりと飛び出して来やがったのがあの犬でございます。なんだか気味の悪い眼つきをして、わっしの面《かお》を見つめながら後をくっついて来るでしょう、癪《しゃく》に触るから、いま旦那がなすったように、石を振り上げて追い払おうとしますと、あいつが凄い声で唸りましたね。その声でブルブルと、わっしは慄え上ってしまいましたよ。旦那のように睨みが利きませんから逃げ出しました。とうとうここまで追い詰められてこんな怪我をした上に、ごらんなさい、着物の裾なんぞはこの通りズタズタでございます
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