大菩薩峠
女子と小人の巻
中里介山

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)根《こん》がよく

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|挺《ちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
−−

         一

 伊勢から帰った後の道庵先生は別に変ったこともなく、道庵流に暮らしておりました。
 医術にかけてはそれを施すことも親切であるが、それを研究することも根《こん》がよく、ひまがあれば古今の医書を繙《ひもと》いて、細かに調べているのだが、どうしたものか先生の病で、「医者なんという者は当《あて》にならねえ、人の病気なんぞは人間業《にんげんわざ》で癒《なお》せるもので無《ね》え」と言って、自分で自分を軽蔑《けいべつ》したようなことを言うから変り者にされてしまいます。そうかと思うと、「人の命を取ることにかけては新撰組の近藤勇よりも、おれの方がズット上手《うわて》だ、今まで、おれの手にかけて殺した人間が二千人からある」なんというようなことを言い出すから穏かでなくなってしまうのです。どこから手に入れたか、この日は舶来《はくらい》の解剖図《かいぼうず》を拡げて、それと一緒に一|挺《ちょう》のナイフを弄《いじ》りながら独言《ひとりごと》を言っています。
「毛唐《けとう》は面白いものを作る、こうすれば鎌になる」
 ナイフの刃を角《かく》に折り曲げて鎌の形にし、
「それからまた、こうすれば燧《ひうち》に使える、こうして引き出せば庖丁《ほうちょう》にもなり剃刀《かみそり》にもなる」
 たあいないことを言って、ナイフをおもちゃにして解剖図を研究しているところへ、
「先生」
「何だ」
「お客でございます」
「お客? いま勉強しているところだから、大概《たいがい》のお客なら追払っちまえ」
「与八さんが来ました」
「与八が?」
「与八さんが馬を曳《ひ》いて来ました」
「与八が馬を曳いて来た? そいつは面白い、こっちへ通せ」
 与八が沢井から久しぶりで道庵先生を訪れて来ました。
「与八、お前が来たから今日は、おれも久しぶりで江戸見物をやる、どうだ、両国へでも行ってみようか」
「お伴《とも》をしましょう」
 その翌日、道庵は与八をつれて両国へ出かけました。与八の背には郁太郎《いくたろう》が温和《おとな》しく眠っています。
 道庵先生は両国へ行く途中も、例の道庵流を発揮して通りがかりの人を笑わせました。
「あそこが両国だ、大きな川があるだろう、間《あい》を流るる隅田川というのがあれだ。向うは上総《かずさ》の国で、こっちが武蔵の江戸だから、昔し両国橋と言ったものだが、今はあっちもこっちもお江戸のうちだ。どうだい、景気がいいだろう、幟《のぼり》があの通り立ってらあ、橋の向うとこっちに見世物小屋が並んでる、見物人がいつでもあの通り真黒だ、木戸番が声を嗄《か》らしていやがる。与八、うっかりあの前へ行ってポカンと立っていると巾着切《きんちゃくきり》に巾着を切られるから用心しろ、ぐずぐずしていると迷児《まいご》になるから、おれの袖をしっかり捉《つか》めえていろ、自分の足を踏まれぬように、背中の子供を押しつぶされねえように気をつけて」
 こうして二人は両国の人混《ひとご》みへ入り込んで行きました。
「先生、こりゃ何だい」
 与八はいちいち見世物の絵看板の前で立ち止まる。
「こりゃその駱駝《らくだ》の見世物だ」
「駱駝というのは何だろう、馬みたような変てこなものだな」
「そりゃ南蛮《なんばん》の馬だ」
「背中に瘤《こぶ》がある」
「あれが鞍《くら》の代りになる」
「おおきな瘤だな」
「はははは」
「先生、こりゃ何だ」
「これは籠細工《かございく》というものだ、今はやり[#「はやり」に傍点]の籠細工というものだ」
「綺麗《きれい》だなあ」
「その次は竹細工、糸細工、硝子細工《びいどろざいく》、紙細工」
「綺麗だなあ」
「それから駒廻《こままわ》し」
「やあ、駒から水が出ている」
「今度は機関《からくり》」
「やあ、機関まである」
「女盗賊三島のお仙ときたな、こりゃ三座太夫だ、次がおででこ[#「おででこ」に傍点]芝居」
「芝居で歯磨を売るのはおかしい」
「はははは」
「それでも先生、『おあいきやう手踊り御歯磨調合人、岩井|管五郎《くだごろう》』と書いてある」
「いや、こいつらは、もと歯磨売りとしてその筋へ願ってあるのだ、芝居をすると言って始めたのではない、それだから今でも歯磨の看板を出しているのだ」
「ああ、打掛《うちかけ》を着たお姫様が向うを向いている、ありゃ何だ」
「与八、あんなものを見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」
「みんな中で笑っている」
「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」
「そうですか」
「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば言語道断《ごんごどうだん》のものだ。さあ与八、ここに軽業《かるわざ》がある」
「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」
「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」
「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な面《かお》をした娘が逆《さか》さになって、足で盥《たらい》を組み上げて、その上で三味線を弾いてらあ、エライものだなあ。こっちの方は綱渡りか」
 与八は余念なくこの立看板を仰向《あおむ》いて見て行くうちに、
「大評判、印度人槍使い」
 ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。
「先生、この槍使いの面《かお》は、こりゃ何という面だ」
「はははは」
「面も身体も真黒で、眼を光らかして、裸体《はだか》で槍を持って立っているが」
「こりゃ印度人だよ、印度といって天竺《てんじく》のことだ」
「へえ」
「印度から来た槍使いと書いてある」
「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」
「そうだ」
「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」
「黒ん坊とさえ言うからな」
「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」
「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」
「へえ」
「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」
「ずいぶん黒いなあ」
「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました稀代《きだい》の槍使いはこれでござい、ごらんの通り、身の丈わずか四尺一寸なれども、槍を使うては神妙不可思議、これまでこの男の槍先に斃《たお》されましたところの虎が三十八頭、豹《ひょう》が二十五頭、そのほか猛獣毒蛇をこの一本の槍先で仕留めましたること数知れず、或る時ヒマラヤ山の麓におきまして不意に一頭の猛虎に襲われましたる折に、右の股《もも》を牙《きば》にかけられ、すでにこうよと見えたるところを、取り直して、グサと突込みました一槍で、猛虎の口から尻まで突き通して仕留めましたその働きが、国王殿下のお耳に入り、この通り首にかけたる金銀のメタル、これが印度国王殿下からの賜わり物にござりまあす。それより以来《このかた》、当人は右足の自由を失いまして片足の芸当、高いところは十丈の梁《はり》の上を走り、低いところは水の底をくぐる、馬に乗りましてこの槍を使いますれば馬上の槍、我が朝におきましては宝蔵院の入道、高田又兵衛といえどもこれには及ばず。嘘偽《うそいつわ》りと思召すなら御見物の方々、御持合《おんもちあわ》せの手裏剣《しゅりけん》なり鉄扇なり、または備え置きましたる半弓、石、瓦の類《たぐい》をもって、御遠慮なく当人の四肢五体いずれへなりともお覘《ねら》いをつけ下し置かれ、まんいち当人の身に一つでも当りましょうならば、その場において、ここにござりまする虎の皮三枚、豹の皮二枚、これをお土産《みやげ》までにどなた様にも差上げまする。長い浮世に短い命、こういうものが二度とふたたび、日本の土地へ参りましょうならお目にかかりまする、孫子《まごこ》に至るまでのお話の種、評判の印度人、ガンジス河の槍使いはこれでござい!」
「ははあ、これがこのごろ評判の槍使いだな」
「先生、本当だんべえかね、本当に印度からこんなエライ槍使いが来ているのかね」
「口上言いの言うことは当《あて》にならねえが、それでもこのごろは、この見世物がばかに評判だ、まるっきり嘘を言って評判を立てるわけにもゆくめえから本当かも知れねえよ」
「そうかなあ」
 与八はしきりにその印度人槍使いの大看板をながめていますから道庵が、
「与八、これがそんなに気に入ったか。それでは、こいつをひとつ見せてやろう」
「そうしておくんなさい」
「俺もこいつをひとつ見たいと思っていたのだ」
 二十四文ずつの木戸銭を払って、道庵と与八はこの小屋の中へ入りました。
 小屋の中は摺鉢《すりばち》のようになって、真中のところが興行場になっていて、見物は相撲を見ると同じように、四方から囲んで見ることになっています。
 道庵と与八とは土間の程よいところに陣取って、与八は郁太郎を卸《おろ》して膝にかかえ、物珍らしそうに、この大きな小屋がけの天井から板囲《いたがこい》いっぱいになった見物人の方をながめて、
「たいへん人が入っている」
 この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。
 紋附を着て袴を穿《は》いて襷《たすき》をかけた娘が三人出て来て、台の上へ仰向きに寝て足でいろいろの芸をやる。それから力持、相撲のように太った女、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで和藤内《わとうない》のような風をしているその女の腹の上へ臼《うす》を載せて、その上で餅を搗《つ》いたり、その臼をまた手玉に取ったりする。
 道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、鮨《すし》と饅頭《まんじゅう》を山の如く取って与八に食わせ、自分も食いながら、
「今度は、例の印度人の槍使いだな」
 問題の印度人、書入《かきい》れの芸当。長い浮世に短い命、二度とふたたびは日本の土地で見られないと口上が言った。前にも後にも初めての舶来、看板でおどかし、呼込みで景気をつけ、次に中入り前に、ワザワザ時間を置いて勿体《もったい》をつけて、また改めて口上言いが出て、
「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」
 前のに尾鰭《おひれ》をつけて長々と、槍使い一代の履歴を述べ、さんざん能書《のうがき》を並べて見物に気を持たせておいて、口上が引込むと拍子木カチカチと、東口から現れたのがその印度人であります。
「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に偽《いつわ》りは無《ね》え」
 見物はその異様な風采《ふうさい》でまず大満足の意を表します。なるほど背四尺一寸と看板に書いてあった通り。手に持った槍、柄は真赤に塗ってあって、尖《さき》が菱《ひし》のようになっている、それも看板と間違いはない。身体《からだ》は漆《うるし》のように黒く、眼ばかり光って、唇が拵《こしら》えたように厚く、唇の色が塗ったように朱《あか》い、頭の毛は散切《ざんぎり》で縮《ちぢ》れている、腰の周囲《まわり》には更紗《さらさ》のような巾《きれ》を巻いている、首には例の国王殿下から賜わったという金銀のメタルが輪になって輝いている、それもこれもみんな看板と同じこと。それが東口から赤柄《あかえ》の菱槍《ひしやり》を突いて出て来る足許《あしもと》は、一歩は高く一歩は低いものであります。
「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」
 その跛足《びっこ》がまた大喝采《だいかっさい》。
「イヨー、舶来
次へ
全12ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング