の加藤清正!」
「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」
 見物は喚《わめ》く。
「先生」
「与八」
「看板の通りだね」
「看板の通りだよ」
 やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから面《かお》の上へは情がうつりません。
「キーキーキー」
 白い歯を剥《む》き出して、猿の啼《な》くような声を出して、左の手を高く挙げました。
「あれが向うの挨拶《あいさつ》なんだね、日本でこんにちはと言うのを、印度ではキーキーと言うんだろう」
「それに違えねえ」
 印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を一週《ひとまわ》り見廻して正面を切ると、一心に見ていた道庵先生と期せずして面《かお》がピタリ合いました。
 道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。他目《よそめ》には誰も何とも気がつかなかったが、印度人はブルブルと慄《ふる》えて、危なく槍を取落すところを、しっかりと持ち直して、わざとらしく横を向きました。
「はて、おかしいぞ」
 道庵先生もまたこの時首を捻《ひね》りましたが、
「何だね、先生」
「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」
「先生は印度人にも友達があるのかね」
「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、跛足《びっこ》に申し分もなし、こいつはいよいよおかしい」
 道庵先生は、慈姑《くわい》頭を振り立てて印度人の恰好《かっこう》を横から見、縦から見ていましたが、
「あはははは」
 突然、大きな声で笑い出しました。
 時々変なことを言い出すお医者さんと思って、あたりの見物も気に留めなかったが、この時は笑い方があまり仰山《ぎょうさん》であったから、みんなが道庵の方を振向いて見ました。
「先生、何を笑ってるのだ」
 与八も驚かされました。
「あはははは」
 道庵はやはり大口をあいて笑います。
「何がおかしいだか」
 与八は受取れぬ面《かお》。
「まず前芸と致しまして槍投げの一曲、宙天《ちゅうてん》に投げたる槍を片手に受け留める……」
 口上言いが言う。
 印度人が槍を取り直して、ヒューと上へ投げる。
「うまいぞ! あははは」
 道庵先生が囃《はや》すと、印度人はブルブルと慄えて、落ちて来た槍を危ないところで受け留める。手足にワナワナと顫《ふる》えが見えるのが不思議です。
「黒さん、しっかり頼むよ」
 道庵先生に言葉をかけられるたびに、印度人がドギマギして、ほかの人が見てもおかしいと思うくらいに、槍の扱いがしどろになってしまうから見物が、
「なんだか危なっかしい手つきだ」
 幸いに面の色は真黒だから、表情が更にわからないけれど、どうも黒さんの調子が甚だ変なのであります。それでもやっと数番の槍投げを了《お》えて、
「次は槍飛び!」
 口上がかかると、
「しっかりやれ、道庵がついてるぞ!」
 道庵がまた大きな声。
 槍飛びの芸当にかかるはずの印度人が、この時ふいと舞台から逃げ出しました。
「おい黒さん」
 口上言いが驚いて呼び止める。それを耳にも入れないで、印度人は、槍を突いて跛足《びっこ》を飛ばして楽屋《がくや》の方へ逃げ込みます。
「おや、黒さん、どうしたんだい」
 口上言いや出方《でかた》が飛んで行って、印度人を連れ戻そうとするのを、印度人は頓着《とんちゃく》なしに楽屋に逃げ込んでしまいます。
 いよいよ本芸にかかろうとする前に、肝腎《かんじん》の太夫さんが黙って逃げ出したのだから、
「どうしたんだ」
「怪《おか》しいな」
「急病でも出たのかな」
「ひょいと出て、ひょいと引込んでしまやがった」
「おかしな奴だよ」
「出方が追っかけて行かあ」
「あれ、楽屋へ逃げ込んでしまったぞ」
「どうしたわけなんだ」
「やあい、黒、どうしたんだ」
「黒!」
「黒ん坊!」
「早く出ろ! 黒やあい」
 見物は、ようやく沸き立ってきました。
「東西」
 口上言いが、沸き立つ見物の前へ出て来て、
「ただいま、印度人が急病さし起りまして、暫らく楽屋に休憩とございます、なにぶん熱国より気候の違った日本の土地に初めて参りましたこと故……」
「あはははは」
 口上の申しわけ半ばに道庵が笑う。口上は腰を折られて変な目をして道庵を見たが、また申しわけをつづけて、
「食当り水当りのために頭痛眩暈《ずつうめまい》を致し、なにぶん芸当相勤め兼ねまするにより……」
「その病気なら俺が癒してやる」
 またしても道庵の差出口《さしでぐち》。
「当人病気休息の間、代って手品水芸の一席を御覧に入れまあする」
「馬鹿野郎」
 見物が承知しませんでした。
「手品なんぞは見たくねえ、早く黒を出せやい、黒ん坊を出せ」
「新宿の八丁目から、わざわざ黒ん坊を見に来たんだい」
 半畳《はんじょう》が飛ぶ。

 自分の楽屋へ逃げて来た印度人、楽屋にはお玉のお君が胡弓《こきゅう》を合わせていました。
「どうしたの、友さん」
「駄目だ、駄目だ」
 ここへ来ると印度人は楽な日本語です。
「まだお前、引込む時間ではないのだろう」
「いけねえ」
 印度人は、お君の傍へ倒れるように坐って首を振りました。
「どうしたんですよ」
 お君は胡弓をさしおいて心配そう。
「ばれちゃった、ばれちゃった」
「まあ」
 お君も安からぬ色。
「誰か、お前が印度人でないと言う人があったの」
「うん」
「じゃあ何かい、お前が、宇治山田の友さんのお化《ば》けだということを、誰か見物が言ったの」
「そうは言わねえけれど、知っている人に見つかっちゃった」
「知ってる人? それは誰」
「それは、俺《おい》らが世話になったお医者さんだ」
「お医者さん? 伊勢《あちら》のお医者さんかえ」
「いいや、いつかもお前に話したろう、俺らが隠《かくれ》ヶ岡《おか》で突き落されて、一ぺん死んだやつを生かしてくれたお医者さんだ」
「それでは、あの下谷の長者町にいらっしゃるという先生かい」
「そうだ、その道庵先生が見物に来ているのだよ」
「まあ、そりゃ驚いたね。それだってお前、なにも心配することはありゃしないよ、お前の方では道庵先生だとわかっても、先生の方ではお前が友さんだとわかる気遣《きづか》いはないからね。傍にいるわたしだって、そう言われなければわからないのだから、心配しなくてもいいじゃないか」
「ところが駄目なんだ」
「わかっちまったのかい」
「なんしろ、俺の身体は頭の上に毛が幾本あって、足の蹠《うら》に筋がいくつあるということまで、ちゃあんと呑込んでる先生だから、一目で見破られちまった」
「そりゃ困ったね。でもね、先生は悪い方じゃないんだろう、だからここでお前を素破抜《すっぱぬ》いて恥を掻かすようなことはなさりゃすまいから」
「そんなことはしねえ、素破抜きなんぞはやりゃあしねえが、あはははと大きな声で笑う」
「そりゃ、知った人が見りゃおかしいだろうよ」
「そうして、『黒、しっかりやれ、俺が附いてる』なんと言うのだ、あの先生、酔っぱらっているからね」
「何と言ったってかまやしないじゃないか、怖《こわ》いことはないだろう」
「だってお前、俺《おい》らには気恥しくってやっていられねえ」
「困ったねえ」
「俺らはもう印度人は廃業だ、親方にうまく持ちかけられて、お前までがやってみろと言うものだからこんなに黒くなってしまったが、今日という今日は、とてもやりきれねえ」
「困ったねえ」
「印度人は俺らの性《しょう》に合わねえ」
「困ったねえ」
 この時、見物席の方で罵《ののし》り噪《さわ》ぐ声がここまで喧《けたた》ましく響いて来る。
「あれ、あんなにお客が騒いでいるじゃないか、お前が中途で引込んだからなのだろう、お客様はみんなお前を見たがって来るのだからね」
「俺らはここへ寝てしまう」
 この印度人の正体が米友《よねとも》であることは申すまでもないことで、米友は今、刺繍《ぬいとり》の衣裳などが掛けてある帳《とばり》の中へ入って寝込んでしまおうとすると、
「黒さん」
 楽屋へ来たのは洗い髪の中年増《ちゅうどしま》。色が白くて光沢《つや》がある。朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》と煙草盆とをさげて、弁慶縞の大柄《おおがら》に男帯をグルグル巻きつけて、
「どうしたんだい」
 背後《うしろ》には屈強な若者が三人、控えています。
「親方、済まねえが……」
 米友はこの年増を親方という。そうして済まねえと言って一目《いちもく》置く。
「済まないといったってお前、あの通り、お客がわいてるじゃないか」
「ばれちゃったんだ、親方」
「ばれたって? 誰もそんなことを言やしないよ、あの通り騒いでいるのはみんな、お前を見たがって騒いでるのじゃないか、お前がイカサマだっていうことを、一人も言ってるものはないじゃないか」
「けれども親方、たった一人、知ってる奴があるんだから、何とかしておくんなさい」
「なんと言ったって駄目なんだよ、お前が出て挨拶しなけりゃ、お客は納《おさ》まらないんだよ」
「では親方、病気だと言って休ましておくんなさい、今日一日、休ましておくんなさい、今晩よく考えておきますから」
「困るよ、そんなことを言ったって。あれあの通り、大騒ぎが始まっているじゃないか。それではお前、ちょっと出て挨拶しておくれ、病気で芸ができませんからって、お前の面《かお》で挨拶をしなければお客様は納まらないんだよ」
「俺らは出るのはいやだ」
「いやだとお言いかえ」
 お君はそれと心配して、
「友さん、そんなことを言わずに出ておくれよう、出て、なんとか言っておくれよう」
「うむ」
「さあ、早く出て行っておくれよう」
「うむ」
 米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは一寸《ちょっと》ばかり面《かお》を出してね、出鱈目《でたらめ》を言うから、口上の方でごまかしておくんなさい」
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は廃業《やめ》だよ、黒ん坊は御免を蒙《こうむ》るよ」
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を晦《くら》ますと、こんな思いをしなくっちゃあならねえ、もう印度人には懲々《こりごり》だ」
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな小言《こごと》をいま言ったって仕方がないよ、早く出ておくれ」
 親方の年増《としま》は、だますようにして米友をつれて行きました。

「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
 与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
 道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の面《かお》に怖れをなして逃げ出したのだ。どうだ与八、おれの豪《えら》いことをいま知ったか、三十五頭の虎を退治した奴が、おれの面を見ただけで逃げてしまった」
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行
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