って黒を引き出して見せる」
「それじゃ先生、あの黒ん坊とお前さんは知合いなんだね」
「なんでもいいから見ていろ」
「先生、印度の言葉がわかるのかね」
「わかるとも、印度の言葉であれ、和蘭《オランダ》の言葉であれ、ちゃんと心得ている」
「豪いもんだな」
「いよいよ楽屋の方へ押しかけて行ったな、うまく黒を引っぱって来ればいいがな。さあ、黒が来てなんと言うか、よく聞いていろ。このなかに印度の言葉がわかる奴は憚《はばか》りながらこの道庵のほかには無《ね》え、なあに、楽屋のやつらだって印度の言葉がわかるものか。出て来たら、奴の挨拶の仕様によって、おれが一番、通弁をして見物のやつらをあっと言わせてやる、出て来なければ俺が迎えに行って連れて来て見せる、俺が来いと言えば二つ返事で来る、もし病気だといえばお手の物だから俺が診察してやる、日本広しといえども、印度人の病気を見出すにはこの道庵より上手な医者は無《ね》え」
「先生、あんまり大きなことを言うと見物の人に撲《なぐ》られるよ」
「なあに、大丈夫、おれは印度の言葉を心得ている、その上に印度人の病気を見出すことが上手だ」
「先生、出て来ましたぜ」
「やあ来た来た。黒、またやって来たな、しっかりやれ」
「東西――」
 口上言いと出方とが黒を引っぱって、場の真中へ出て来ました。黒は元気のない歩きつきをして道庵の方を見るのが、鼠が猫を見るような態度であります。
 黒が出て来たので見物は、やっと納まりました。
「いよう黒ん坊!」
「御見物の皆々様へ申し上げます、ごらんの通り色が黒うございますから、喜怒哀楽の心持が現われませぬ、どうぞこの足どりの萎《しお》れたところでごらん下さいまし、虎を手取りに致すほどの豪傑も、人間はすこぶる内気でございまして、子供のようなところがございます、ただいま腹痛がさし起りまして、とても芸当が致し兼ねると申して、皆々様にお断わりも申し上げず引込んで駄々を捏《こ》ねまするのを、ようやくのことで引き出して参りました、今日はどうぞ、これにて御免を願い上げまする、その代りと致しまして、明日《あした》は残らず芸当を取揃えて御覧に入れまする……」
 口上言いがぺらぺら喋《しゃべ》ると、聞いていた印度人の米友、その手を後ろからグイグイと引く。
「明日は間違いがございません……」
 また手を引く。
「槍投げ、槍飛び、馬上の槍、水中の槍、綱渡りの槍、飛越えの槍、矢切《やぎり》の槍、鉄砲避《てっぽうよ》けの槍……」
「嘘《うそ》を言うな! 明日はやらねえ」
 怺《こら》え兼ねた印度人の米友、我を忘れて口上言いを力に任せて後ろへ引くと、口上言いは尻餅《しりもち》を搗《つ》く。
「おや!」
 見物は驚く。
「嘘だ!」
 米友が喚《わめ》く。
「おや、あの印度人が日本の言葉を使ったぜ、そうして口上をひっくり返した」
 見物はまた沸く。
「あはははは」
 道庵先生が、また大笑いをする。

 その晩に、お君と米友はこの見世物小屋を追ん出されてしまいました。
「友さん」
 お君は泣き出しそうな面《かお》をして、三味線だけを小脇《こわき》にかかえ、
「お前は、あんまり気が短いからいけないのだよ」
「だって仕方がねえ」
 米友は、この時はもう黒ではない。黒いところはすっかり洗い落されて、昔に変るのは茶筅《ちゃせん》を押立《おった》てた頭が散切《ざんぎり》になっただけのこと。身体《からだ》には盲目縞《めくらじま》の筒袖を着ていました。
「口上さんが申しわけをしている時に、あんなことを言い出さなければよかったに、あれですっかり失敗《しくじ》ってしまったんだよ。それでも聞き咎《とが》めた人は幾人もなかったからよいけれど、本当にばれた時には、それこそ小屋を壊されて、どんな目に会うか知れなかったよ」
「あの時は、ついあんなわけで、口上の言草《いいぐさ》が癪《しゃく》に触るから」
「あたりまえなら、袋叩《ふくろだた》きにされた上に小屋を抛《ほう》り出されるのだけれども、お前が槍が出来るし、それに偽《にせ》の印度人だという評判が立っては悪いから、こうして黙って追い出されたんだというから、まあ仕合せだと思っていますよ」
「うん、俺《おい》らも、もうあんなところにはいてくれといったって一日もいられやしねえ、ちょうどいい幸いだ」
「だけれどあの親方は、そんなに悪い人じゃないよ。なにしろ女の身でもって、あれだけのことを踏まえて行こうというんだから、なかなかしっかりしたところがあるねえ」
「そうだ、あの親方は、あれでなかなかいいところがあるよ」
「第一、侠気《おとこぎ》があるね。ほら、二人が三島まで来て、お金が無くなって困っていた時に、あの親方に助けられたんだろう、わたしの三味線がいいから下座《げざ》に使ってやると言って、中へ入れてくれたから、お関所も無事に通ることができたんだよ」
「そうだ、それからとうとう、おれを印度人に化けさせやがった。はじめの考えでは、俺《おい》らはあの道庵先生を頼って行くつもりであったが、途中で印度人に化けるようなことになっちまった」
「これからどうしようね」
「どうしようと言ったって、まあ今夜はどこか木賃《きちん》へでも泊って、ゆっくり相談するとしよう」
「あの親方が言うのにはね、君ちゃん、お前は一旦ここを出ても、気があったらまた戻っておいで、どんなにも相談に乗って上げるからと、出る時に親切に言ってくれたのよ」
「俺らにはそんなことを言わなかったが、お前にだけそんなことを言ったのかい」
「そうだよ、わたしにだけ内密《ないしょ》に言ってくれたの。江戸に居悪《いにく》ければ旅へ出た時に、まだ仕事はいくらでもあるから、どこへか落着いたら居所《いどころ》を知らせてくれと言ってくれましたよ。そうして今晩も泊るところがなければ、両国橋を渡ると向うに知合いの宿屋があるから、そこへ行って親方の名をいえばいつでも泊めてくれると、その所や宿屋の名前まで、よく教えてくれましたよ」
「はは、それでは親方は俺らには愛想《あいそう》を尽かしたけれども、お前の方にはまだ見込みがあるんだな。お前またあすこへ行ってみる気があるのかい」
「そうですねえ、あの親方さんが親切に言ってくれるものだから」
「そうか……」
 二人は両国橋を渡ります。夜風が吹いて川を渡るのに、見世物場では賑やかな燈火《あかり》。二人はこし方《かた》とゆく末を話し合って、後ろに跟《つ》いて来たムクのことを忘れていました。

         二

「君ちゃん、俺らもようやく奉公口がきまったよ」
 米友が言って来たのは、それからいくらもたたない後のことでありました。
「そうかい、それはよかったねえ、どんなところなの」
 着物を畳んでいたお君が莞爾《にっこり》しました。
「金貸しの家だよ、このごろ金貸しを始めた家なんだよ」
「金貸し? お金を貸して利息を取る商売なの」
「そうだよ」
「金貸しは貧乏人泣かせで、罪な商売だというじゃないか」
「罪な商売かも知れねえが、俺らがそれをやるわけじゃない、俺らはただ奉公人なんだから」
「そりゃそうさ。まあ、何でもよく勤めさえすりゃいいんだろう」
「家の留守番をして、庭でも掃いていりゃいいんだとさ。俺らは片足が不自由だけれども力があるから、泥棒の用心にいいからって、それで雇われることになったんだ」
「そうだろうねえ、金貸しの家なんぞは泥棒に覘《ねら》われるだろうねえ。家の用心もしなくちゃあいけないけれど、自分の身も用心しなくちゃいけないよ」
「大丈夫だ」
「それで家の人数は多いのかい、雇人はお前のほかにたくさんいるだろうねえ」
「うんにゃ、俺らのほかには飯焚《めしたき》が一人、そのほかによそから来ている人はいねえ」
「大へんにこぢんまりした金貸しさんだねえ、それでは家の者が多いのでしょう、息子さんだとか、娘さんだとか」
「それもずいぶん少ないのだよ、よく考えてみると、おかしな家だよ」
「おかしな家とは?」
「でも、主人というのは子供なんだからね、子供といっても十四か五ぐらいだ、それが主人で、そのお母さんともつかず姉さんともつかない女が一人、その子は、おばさんおばさんと言っているが、その二人きりなんだ」
「その女の人と子供と二人で金貸しをしているの」
「うむ、そうだよ、代々やっているのかと思えばそうでもなく、ほんの近頃はじめたらしいんだから」
「では、そのおばさんというのが、先《せん》の御亭主か何かが残しておいたお金をもって、それを寝かしておくのも惜しいから、金貸しをして暮らそうとでもいうんだろう」
「そんなことだろうと思うよ。その子供がまた、ばかにマセた子供でね、主人気取りで、俺らを使い廻す気になっていて、うっかり坊ちゃんなんと言おうものなら、怖い眼をして睨むんだからおかしいや」
「その子供さんが番頭をするんだろうから、お前は番頭さんといえばいいじゃないか」
「番頭さんでも気に入らないんだ、旦那様と言わないと納まらないんだからおかしいやな」
「旦那様というのは少しおかしいね、十四や十五の子供をつかまえて」
「けれども旦那様と言うことになったんだ。そうしてみると、俺らはあの、おばさんという人の方をなんと言っていいか、それをいま考えているんだ」
「その子供が旦那様では、まさか奥様とも言えないしね」
「そうかと言って、まだお婆さんという年でもないんだ、やっぱり奥様と言っているより仕方があるめえ」
「なんでもよいからその時の都合のいいようにお言い。それからお前、短気を出さないでよく奉公をしなくてはいけないよ」
「うまく勤まるかどうだか。それにしても君ちゃん、お前の方はどうなるのだい、お前はあの軽業《かるわざ》と一緒に旅に出る気なのかい」
「ああ、少しの間だから行ってみようと思うの、いつまでこうしていたって仕方がないから、わたしもあの人たちのお伴《とも》をして旅に出てみることにしようと思うの」
「もう返事をしてしまったのかい」
「ええ」
「旅に出るのは危ないぜ」
「でも永いことじゃないから」
「どっちの方へ行くんだい」
「甲州とやらへ」
「甲州へ?」
「すぐ帰って来ますよ」
 お君は畳みかけていた着物を、また畳みはじめます。
「君ちゃん」
 米友は、燈下に着物を畳むお君の姿を横の方から暫く眺めていて、思い出したように名を呼びました。
「何だえ」
 お君は着物を畳みながら返事。
「お前は旅へ行く、俺らは奉公に行く、そうすると、また暫く会えないね」
「何だい友さん、そんなに心細いようなことを言ってさ」
「でも、暫く会えないじゃないか」
「暫く会えないには違いないけれど、お前の言うのはなんだか一生会えないような心細い言い方をするから」
「一生会えないかも知れないからさ」
「縁起《えんぎ》でもないことを言っておくれでない、一生会えないなんて」
「それでも、なんだかそんな気持がする、これっきり一生会えないような気持がする」
「またそんなことを」
「お前、その畳んでいる着物は、そりゃあの親方さんから貰ったんだね」
「そうだよ、ちょうどわたしの身体に合っているから持っておいでと言って、あの親方さんがくれたの、まだ一度ぐらいしきゃ手を通したことがないんだよ」
「綺麗な着物だね」
「それからお前、櫛《くし》だの簪《かんざし》だの、足袋から下駄まで、そっくり拵《こしら》えてくれたのだよ。なかなか金目《かねめ》のもので、わたしたちが二年と三年|稼《かせ》いだからって、これだけのものは出来やしない」
「お前、そんなにたくさん貰って嬉しいかい、有難いと思ってるのかい」
「そりゃ誰だって、こんなに結構なものを貰えば嬉しいと思いますわ、嬉しいと思えばお礼の言葉も出るじゃありませんか」
「そうだろうなあ」
「ほんとうに、あの親方さんは親切な人ですよ、自分の妹のように、わたしの面倒を見てくれますから」
「けれどもね、君ちゃん」
「ええ」
「あれは本当の親切ですると、お前は思っているのかね」
「本当の親切?……本当も嘘もありゃしない、このせちからい世の中に、こんなにして
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