下さる人が二人とありましょうか」
「君ちゃん、お前は正直だから、なんでも人のすることを、する通りに受けてしまうんだが、伊勢の拝田村にいた時はそれでいいけれど、江戸というところはそれでは通らないことがあるんだから」
「ホホホ、お前はおかしなことをいう、どこの国へ行ったって、人情に変りというものがあるはずはないじゃないか」
「ところがなかなか、そんなわけにばかりはいかないのだよ、俺らの身にしたって、あんな約束ではなかったのだけれど、江戸へ来てみると、直ぐに真黒く塗られたのは、この通り洗えば落ちるけれども、君ちゃん、お前がもし真黒く塗られると、洗ったってどうしたって落ちやしないよ」
米友はいまさらのように自分の腕を撫でてみて、それから散切《ざんぎり》になった頭の毛をコキ上げる。
「ホホホ、友さん、お前は今日はどうかしているね」
お君は無邪気に笑います。
「まさかわたしを真黒にして、印度人に仕立てるようなこともないでしょう、そんなことをしたって、わたしでは見物が納まりませんからね」
「真黒にするというのは、そのことじゃねえんだ、お前の身体を真黒にしようと言うんじゃねえのだ」
「どこが黒くなるの」
「はは、まだお前はそれが気が附かねえんだ、心が黒くなるといけねえんだ」
「心が黒くなる? ばかなことをお言いでない、心なんていうものには色はありゃしない」
「それはないさ、今のところお前の心には色がないんだから、それで大事にしなくちゃいけねえ」
「友さん、お前は学者だから、心がどうだなんて言うんだろうけれど、わたしは学問がないからそんなことは知らないよ、黒くなったら洗えばいいじゃないか」
「洗っても落ちねえ」
「なんだか、お前の言うことはわからない」
「わからねえから、それで俺らは心配なんだ、黒くなると二度と洗い落すことはできないんだから」
「まだあんなことを言っている」
それで暫らく二人の無邪気な会話は途切《とぎ》れたが、着物を畳んでいるお君の手は休まない。米友は両手で顋《あご》を押えて下を向いていたが、
「君ちゃん、どうだい、旅へ出ることをよしにしてしまったら」
「ええ? わたしに旅へ出るのを止めにしろって?」
お君は畳みかけた手を休めて、米友の方を向いて眼を円くする。
「そうしてくれると、いつまでも一緒にいられるんだ」
「そんなことを言ったってお前、もう二三日でここに泊っている宿賃もなくなってしまうのに、お前は奉公に行くんだろう、とても二人一緒に過ごして行けることはできないじゃないか。それにお前、今になって急に行けないなんて、あれほど恩になった親方さんの前へ、そんなことが言えるものかね」
「それはそうだろう。それじゃあどうも仕方がねえから、行っておいで」
「情けない言い方をするねえ、もっと威勢よく力を附けて言ってくれなくちゃ」
お君はどこまでも、米友の言うことを気にしないで、いつもの通り軽くあしらって、着物を畳んでいるが、米友はやっぱり浮かない面《かお》をしていると、破《や》れ障子《しょうじ》の裏で、ワン!
「ああ、忘れていた、ムクにまだ夕飯をやらなかった」
米友は、あわて気味に頭を上げると、
「ああ、そうそう、かわいそうに、ムクにまだ夕飯をやらなかったのね」
お君も面《かお》を上げる。米友は立って障子をあけると、縁側に首をのせて、ムクが尾を振って鼻を鳴らしています。
「ムクや」
米友は直ぐに台所から食物を持って来て、ムクに食べさせました。
「ムクや」
尾を軽く振って夕飯を食っているムク。それを見ながら米友が、
「ムク、俺《おい》らは明日から奉公に行くんだぞ、君ちゃんは近いうち旅へ出るんだぞ、俺らはお前をつれて行くことはできねえが……そうだ、お前は君ちゃんに附いて行け、俺らの代りに君ちゃんに附いて行け」
こう言って米友の面が急に明るくなって、
「君ちゃん、君ちゃん」
「なに」
「旅へ出るにもムクはつれて行くんだろうな、ムクをつれて行っても親方は叱言《こごと》を言やしないんだろうね」
お君は頷《うなず》いて、
「ああ、それはいいんだよ、ムクにはこれから芸を仕込むなんて、親方も大へん可愛がってるから」
「それで安心した、行っておいで、行っておいで」
米友はホッと息をつきました。
三
米友が庭を掃いていると、木戸口をガラリとあけて入って来たのは十四五の少年であります。子供のくせに気取った容姿《なり》をして、小風呂敷を抱えた様子が、いかにもこまっちゃくれているが、よく見るとそれは甲州の山の中で金《きん》を探していた忠作でした。
「友造、誰も来なかったか」
「へえ、誰も参りませんよ」
「ああ、そうか」
顋《あご》をしゃくって忠作は家の中へ入ってしまうと、米友はそのあとを見送って、
「ばかにしてやがら」
相変らず跛足《びっこ》を引きながら庭を掃いていると、
「友造、友造」
奥の方で呼ぶ声がします。
「ばかにしてやがら、友造、友造と噛んで吐き出すように言やがる」
「友造、友造」
「自暴《やけ》になって呼んでやがる、返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
「はははのはだ、友造がどうしたんだ、友造で悪けりゃ勝手にしろ」
「友造、友造」
「やあ、こっちへやって来るな、怒ってやがる、小餓鬼《こがき》のくせに金貸しなんぞをしやがって、生意気な野郎だから返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
キンキンした声で怒鳴りながら奥から飛んで来る様子。
「隠れろ、隠れろ」
友造の米友は縁の下へそっと隠れました。
「おや、ここにもいない、友造、どこへ行ったんだ、友造」
「はははのはだ」
米友が縁の下で舌を出すと、忠作はその上で床板《ゆかいた》を踏み鳴らします。
「友造、友造」
「はーい」
縁の下から返事。
「縁の下にいやがる。何をしているんだ、さっきからあれほど呼んだのが聞えないのか」
「聞えませんでした」
「嘘をつくな」
「嘘じゃありませんよ」
「嘘でなけりゃ貴様は聾《つんぼ》だ、跛足《びっこ》の上に聾ときては形《かた》なしだ」
「何だと」
「ナニ! 主人に向って貴様は口答えをするか、主人に向って」
いつもの米友ならばなかなか黙ってはいないのだが、今日は奉公人の友造、短気をしてはいけないということが、お君からのくれぐれもの餞別《せんべつ》の言葉でもあり、せっかく仲人に立ってくれた道庵先生への義理でもあると、感心に辛抱しました。
「どうも仕方がねえ、なるほどお前さんは主人だ」
米友――ここへ来てからは友造という名に改められたが、面《つら》を膨《ふく》らかして、御主人様のいうことを黙って聞いていると、
「馬鹿、日済《ひなし》を集めに行って来い」
「へい」
「さっさと掃いてしまってこっちへ廻れ、よく呑込めるようにしてやるから」
忠作は障子を荒々しく締め切って奥へ行ってしまいました。
「ちぇッ」
友造は舌打ちをして、
「いやになっちまうな、また日済集めにやられるんだ。日済集めは俺らは大嫌《だいきら》いだ、ナゼだと言えば、あの申しわけを聞くのがいやなんだ、そうかと言って思うように集まらねえと、あの小僧ッ子の御主人様がガミガミ言やがる、いやだなあ、いやだなあ」
友造は口小言を言って庭を廻りました。
米友の友造が貸金を集めに行ったあとでも、忠作はなお一生懸命に算盤《そろばん》と首っ引きをしているところへ入り込んで来たのが、丸髷《まるまげ》の町家風《ちょうかふう》の年増でありました。いつのまに変ったか、これは妻恋坂《つまこいざか》のお絹であります。
「七軒町の小間物屋さんが申しわけに来たから、そんならそれでよいと言って帰してしまいましたよ」
「帰してしまったって?」
忠作は渋面《じゅうめん》をつくって後ろを見返り、
「帰してしまっては困るじゃありませんか、あの口は十五両一分で貸してあるんですよ、今時《いまどき》、ああいう走りの金を、十五両一分で融通するなんというのは格別の計らいなんですよ、それを有難いとも思わずに、待ってくれ待ってくれで、今日で三日目だろう、いいわ、いいわで帰してもらっちゃ困りますね」
「でも、あの人は気前のいい人だから、ありさえすりゃあ返すんだろうけれども、無いから返せないのだろう、性《しょう》の知れた人だから少しぐらい待って上げたっていいだろう」
「これは驚いた、そんな了簡《りょうけん》で金貸しができるものか。今度来たら私のところへ取次いで下さい、私が掛合うから。いや、そんな間緩《まぬる》いことをいってはおられん、今晩にも私が出向いて行って取って来ますから」
「いいじゃあないかね、二日や三日は」
「いけません、そんな了簡では金貸しはできません」
「金貸しという商売も思ったより忙《せわ》しい商売だねえ」
「忙しくって結構、忙しくないようでは上ったりですよ。おかげさまで、これごらんなさい、帳面尻《ちょうめんじり》が鼠算《ねずみざん》のように殖《ふ》えてゆく。どうです、おばさん、元金が利息を生み、利息がまた子を産むんですからね、その子がまた孫を産むんですから、ほうっておいてもメキメキと殖えてゆくんですよ。おばさんも少し算盤《そろばん》の勘定を覚えて下さい、利息の見積りなんぞを呑込んでおいてくれないと困る、私一人で朝から晩までやっているのも面白いけれど、おばさんにも少し覚えておいてもらわないと困ることがあるでしょう」
「使う方ならいくらでも引受けるが、儲《もう》ける方は面倒《めんどう》くさい」
「そうではありませんよ、その道へ入ってみるとこんな面白いことはない、なにしろ二十五両一分というのが利息の通り相場で、二十五両貸して月に一分の利息を上げる、それより上を取ってはならないことにお上《かみ》できめてあるんだが、どうしてどうして、裏はそんなものではない、十五両一分から十両一分、五両一分なんというのも珍らしくはないのですからね。それで向うが折入って御無心《ごむしん》に来る、こっちが高くとまって、それでいやならおよしなさいという腹でいると、背に腹は換えられないから向うが往生してしまうんでさあ、向うに働かしてこっちは懐手《ふところで》をしていて、うまい汁はみんな吸い上げてしまう、こんな面白い商売はまたとあるもんじゃない。これから追々|大尽金《だいじんがね》というのを、はじめてみようと思っていますよ。大尽金というのは大身《たいしん》や金持の若旦那なんぞが、親や家来に内緒《ないしょ》で遊ぶ金を貸すんですね、これは思い切って高い利息を取って、そうして取りはずれのない仕事、ナニ、証文面《しょうもんづら》は御規則通り二十五両一分にしておくから、まかり間違って表沙汰になったところで、それだけの金は取れるんだ。そんな心配はありませんよ、こっちが表沙汰にしようと思っても、向うで折入って来るから……」
忠作は帳面と算盤を見比べながら、ひとり悦《えつ》に入《い》るのを、お絹は面白くもない面《かお》をして、
「わたしの知ってる人が証人に立つから、百両融通してもらいたいと言って来たがどうだろう、借主は両国で景気のいい見世物師だという話だが、証人が確かだから……」
「見世物師?」
「ええ、両国に出ていたのが今度、旅を打って廻ろうというのに、仕込みや何かで金がかかるから、少しばかり借りておきたいと言うんですよ」
「なるほど、見世物師なんというものは、あれで当るとなかなか儲《もう》かるものだから都合して上げてもいいが……」
「今晩、また相談に来ると言っていたよ、よくその時に聞いてみたらいいでしょう」
「向うの話ばかり聞いていても駄目、実地に行って様子を見て、それから抵当《かた》になりそうなものの目利《めきき》をした上で……」
「そんなら行ってごらん」
「ほかにも廻るところがあるから、夕飯が済んだら出かけましょう。両国はなんと言いましたかね」
「何と言ったか、わたしもよく知らない、名札《なふだ》が置いてあったはずだから見て上げよう」
お絹は気のないように、これだけのことを言いぱなしにして、自分の居間へ帰ってしまいました。居
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