間へ帰ってからお絹は、机に凭《もた》れてホッと息をついて、
「ほんとに厭《いや》になってしまう、あんな子供のくせに朝から晩までお金のこと、元金《もときん》がいくらで利息がいくら、それよりほかに言うことはありゃしない。あっちから来るときは賢そうな子だから、見処《みどころ》がありそうに思って、つれて来てなにかと世話をしてやろうと来て見れば、殿様は甲州|勤番《きんばん》、わたしもこれからどうして世渡りをしようかと戸惑《とまど》いをしていたところへ、どうしてあの子が聞き出して来たか、金貸しをすると儲《もう》かると言い出して、その利息勘定などを、わたしの目の前へ持って来て見せるものだから、わたしも眼から鼻へ抜けるようなあの子の賢いのに感心して、それではまあ、やってごらんと言って、それからあの子の持っていた金の塊《かたまり》と、わたしの使い残りのお金を資本《もと》にして、はじめさせてみると、調子はいいにはいいが、ああ細かくなって元金と利息のほかには眼がないようになってしまったのでは、末のことが思われる。このごろでは、コマシャクれた厭な餓鬼《がき》だ、見るのも厭になってしまった。なんとかして、わたしはわたしだけのお金を持って勝手に暮してゆきたい、そうしなくちゃ、ばかばかしくて仕方がない」
 お絹は続いてこんなことを考えていました。
「今晩はどこへか出かけてやろう。それにしても困ったのはお金、いちいちあの子が勘定して封印をして、ほかの人には手もつけさせないようにしてあるんだが、ひとつ探してみてやろうか。あとで文句を言うだろう。なるほどこうして置けば、お金はズンズン利に利を産んで殖《ふ》えてゆくだろうけれど、遣《つか》えないお金では全くつまらない。よし、帰って来たら、相談をして、わたしの取るだけのものは取って別れてしまおう、わたしはその金で、一軒を立てて、お花のお師匠……もうそんなことをしてもいられない、いいかげんの相手があれば……と言って、好いたらしいのは頼みにならないし、頼みになりそうなのは碌《ろく》でもなし、どうしていいかわからない」
 お絹は忠作をうまく使って、番頭も小僧も兼ねた仕事をさせ、自分は蔭で好きなことをして面白おかしく暮そうという目算であったのが、その事業はどうやら思うようにゆくが、お絹の目算は外《はず》れ、肝腎《かんじん》の金銭の出納《すいとう》、収支の自由は忠作が一手に握ってしまって、一分一朱も帳面が固く、お絹がかえって虚器を擁《よう》するようになってしまったから、厭気《いやき》がさしてたまらないのです。

         四

 貸金を集めに一廻りして来た米友。
 神田の柳原河岸《やなぎわらがし》を通りかかったのは、今で言えば夜の八時頃でした。懐中《ふところ》には十両余の金があって、跛足《びっこ》を引き引きやって来ると闇の中から、
「ちょいと、旦那」
 呼ばれて足をとどめた米友の友造が、
「誰だ」
「様子のよい旦那」
 闇《くら》いところから呼んでいるのは女の声。ちょうどその時分、他に往来がとだえていたから、友造を見かけて呼んだものに違いないと思われます。
「俺《おい》らに何か用があるのかい」
「こっちへいらっしゃいよ」
「お前はそこで何をしてるんだ」
「そんなことを言わずに、こっちへいらっしゃいよ、ほんとうに様子のいいお方」
「ばかにしてやがら」
「小作りで華奢《きゃしゃ》なお方」
「ばかにしてやがら、小作りだろうと大作りだろうとお前の世話にゃならねえ」
「ねえ旦那」
「用があるなら早く言いねえな」
「何を言ってるんですよ、用があるから呼んだんじゃないか」
「そんなら早く言ってしまいねえ、俺らはこれでも主人のお使先だ」
「まあ、ゆっくりしておいでなさいよ」
「大事の金を懐中に持ってるんだ、主人の金だから大事だ」
「お金? 頼もしいわ、そんなに大事なお金なら暫らく預かって上げようじゃありませんか」
「お前は俺らを調戯《からか》うつもりなんだな。女のくせに、この暗いところで、男をつかまえて調戯うとは呆《あき》れたもんだ、俺らだからいいけれども、ほかの男だと飛んだ目に逢《あ》うぞ」
「あははだ、お前さんこの柳原の土手を初めて通るんだね」
「初めてなもんかい、これで三度目だい」
「三度目? それでも夜になって通るのは初めてだろう」
「そりゃそうよ」
「そうだろうと思った、この柳原は昼間通るのと、夜通るのとは規則が違うんですからね。夜になってからこの通りを通るに、税金がかかることを知らないんだろう」
「税金がかかる?」
「税金をわたしに納めてからでなければ、通れない規則なんですからね」
「馬鹿野郎」
 女がからみついて来るから、友造は面倒がって逃げ出しました。逃げ出すといっても足の不自由な友造だから、早速には逃げられないで家鴨《あひる》のような恰好《かっこう》をして駈け出しました。女はそれきり追いもしないで、
「ホホホ、小柄《こがら》で華奢《きゃしゃ》で、そうして歩《あん》よのお上手な旦那、またいらっしゃいよ」
 友造の逃げっぷりを立って見て笑っていました。息せききって逃げて来た友造、
「ばかにしやがら、女でなければ、打ちのめしてくれるんだが」
 ようやくにして長者町の奉公先へ帰った友造は、御主人の居間へ行って見ましたが、どこへか出て行ったらしく、暫らく待ってみても帰る様子がないから、自分の部屋へ帰って一息ついている間に、疲れが出て、ついうとうとと寝込んでしまいました。翌朝になって、忠作の前へ呼び出された友造が、
「困ったなア」
「馬鹿」
 忠作のために頭ごなしに叱られました。
「だから財布《さいふ》は、首へ掛けなくちゃならんと言っておいたじゃないか、グルグル捲《ま》きにして懐中へ突っ込んでおくから、こんなことになるんだ」
「エエと、柳原の土手だ、たしかにあの時に落したに違えねえ」
「柳原の土手でどうしたんだ」
「あの土手で女の追剥《おいはぎ》が出やがったから、そいつを追払って逃げた時」
「馬鹿、女の追剥というやつがあるか」
 忠作は苦《にが》りきって、
「ありゃ夜鷹《よたか》というものだ」
「なるほど」
「何がなるほどだ、その夜鷹に捲き上げられたんだろう」
「どうも仕方がねえ、もう一ぺん行って探して来る」
「うむ、探して来い、出なけりゃ道庵さんに話して、せっかくだがお前に暇を出すから、そのつもりでしっかり探して来い」
 昨晩、十両余りの金をいつどこへ落したとも知らずに落してしまったが、その晩は疲れて寝込んだから、今朝まで気がつきませんでした。いざ御主人忠作の前へ並べようとしてみるとその金が無いので、米友も色を変えてしまった、というわけで、思い当るのは昨晩の柳原へ出た奇怪な女の振舞《ふるまい》であります。その辺に少し出入りをしたものは、誰でも知っているはずの夜鷹です。それを米友はまだ夜鷹と知らないでいるのに、忠作はまた、友造が夜鷹にひっかかって捲き上げられたとばかり邪推して、金が出なければ米友を追い出すことに了簡《りょうけん》をきめているらしい。
「弱ったな」
 跛足を引き引き柳原の方を差して行く。柳原へ行ってみたところで、あの女が取ったものならば、出て来るはずはないし、落したものならもはや拾われてしまっているはず、こうと知ったらあの女の面《かお》をよく見ておけばよかったものをと、米友はいまさらに悔《くや》みます。悔んだところで、暗いところから出て来たものだから面の見様もなかったし、ただ声に聞覚えがあるといえばあるのだが、それだって別段、耳に立つほどの声でもなかったから、声だけでは、いま眼の前へその女が現われて来たところでわかろうはずはありません。
「小作りで華奢で、歩《あん》よのお上手な旦那と言やがった、ばかにしてやがら」
 米友は昨晩の女の言草《いいぐさ》を思い出して腹を立てました。そんなに冷かされては米友だって腹の立つのは無理もないようなものだが、それよりも、人の懐中物を奪おうとするような性質《たち》のわるい女が江戸の市中に徘徊《はいかい》しているかと思えば、それが憤慨に堪えないのです。
「向うでは知ってるだろう、向うでは、俺《おい》らの歩きつきまで見ているんだから、俺らが柳原を通れば、もしあの女が正直な女でありさえすりゃ、拾った金を返してくれるにきまっているが、夜鷹でもするくらいの奴だから、拾ったところで知らん面《かお》をしているにきまってる、そうなると、俺らはまたあの家を追出《おんだ》されるんだ、どっちへ行ってもホントに詰《つま》らねえ」
 米友は且《か》つ憤慨し、且つ悲観してしまって、柳原の昨晩騒ぎのあったところまで来て見たけれども、河岸《かし》に材木が転がっていたり葭簀張《よしずばり》がしてあったりするくらいのもので、別段そこに人が住んでいる様子もないし、「ちょいと、様子のよい旦那」と言って呼びかけるような女の気配も見えないから、ポカンとして立ち尽していました。
 十両と少しの金を尋ね出さなければ、米友は御主人の家へ帰ることができないのです。
 神田と浅草の方面をあてもなく歩き廻っていたが、当《あて》のないことはどこまで行っても当がないから、一ぜん飯を食べて腹をこしらえて、再び柳原通りの和泉橋《いずみばし》の袂《たもと》へ戻って来ました。
「詰らねえ」
 この時、後ろの方から蓙《ござ》のような巻いたものを抱えて、三人連れの女がやって来ました。その三人の女をよく見ると、その一人は手拭を被《かぶ》らないで、頭の上へ御幣《ごへい》のような白紙を結んでいます。その白紙がひらひらと河岸の夕風で踊っているところが、なんとなく目につきました。
「ちょいと旦那」
 呼びかけられて米友は、眼をパチパチしました。
「もし、小柄で華奢なお方」
「ナニ」
 米友は、たしかに聞いた声だと思いました。
「何をそこで考えているんですよ」
「少し探し物があるんだ」
「おや、探し物?」
と言った女は、ズカズカと米友の傍に寄って来ました。
「そこに突立っていたって、探し物は出て来やしませんよ、歩いてごらんなさい、小柄で華奢で歩《あん》よのお上手なお方」
「おや、お前は……」
「探し物というのはお金でしょう、鬱金《うこん》の財布に入れたお金のことでしょう、それをお前さんは探しておいでなさるんでしょう」
「それ、それだ」
「そんなら御心配なさいますな、ちゃあんとわたしが預かってありますから」
「あ、そうか、それはよかった」
 米友はホッと安心の胸を撫で下ろすのを、女は笑って、
「意気地のない人だねえ、女を見て、あんなに逃げなくってもいいじゃないか」
「うむ」
「お前さんの逃げっぷりがあんまりおかしいから、あとを暫く見送っていましたのよ、そうすると、足許《あしもと》に落ちていたのが財布、手に取って見た時分には、もうお前さんの姿が見えなかったから、少しばかり追いかけてみたけれど、どちらへおいでなすったか分らなかったから預かっておきました」
「有難う、あれは俺らの金じゃないんだ、主人の金なんだから」
「念のために、わたしは中をよく調べておきました、そうしてすぐにお係りへ届けようと思ったけれど、そうすると面倒になるし、仲間の者に見せれば、すぐに使われてしまいますから、見てごらんなさい、こんな細工《さいく》をしましたのよ、わたしの頭の上の仕掛《しかけ》を」
 女は御幣のような白い紙の片《きれ》がひらひらしている頭を、米友の前へ突き出して、
「お前さん、この白い紙を取って頂戴、お前さんに取らせようと思って、わたしがワザワザこんなことをしたんだから。わたしがこんなことをしておいたのは、もしやお前さんが、お金を失くして探しに来やしないかと思って、その時の目印なんですよ。暗いところだからお互いに面付《かおつき》がわかるんじゃなし、わたしの方では、お前さんの小柄なのと、歩きつきのお上手なのに覚えがあるんだけれども、お前さんの方ではわたしがわかるまいと思って、その目印にこの紙を頭に附けたんだから、この紙をお前さんに取ってもらえば本望《ほんもう》というものだ
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