の中に気の利いたのは、菰張《こもば》りや板囲《いたがこ》いを切りほどいて女子供をそこから逃がしたから、怪我人は大分あったけれども、見物から死人は出さないで一通りは逃がしたけれど、かわいそうに軽業をする美人連は、逃げ場を失うて、櫓《やぐら》の高みや軽業の台の上にかたまって、高みから泣き声をあげていました。
「まあどうしようねえ、お国さん、おやまさん、あれ、うちの男衆がみんな殺されちまうじゃないか、わたしたちはどうなるんでしょうねえ、親方さん、どうしましょう、助けて下さい、助けて下さい」
「そんなに騒がないで静かにしておいで、そのうちにお役人が来て鎮《しず》めて下さるから。何だね、お前たちはそんな意気地のない。日頃危ない芸当をして命の綱を渡っているくせに、もう少ししっかりおし、いよいよの時には梁《はり》を伝わっても逃げられるじゃないか」
「それでも親方さん、危ない、どうしましょうねえ、力持のおせいさん、お前は力持だからわたしを負《おぶ》って逃げて下さいな、わたしはお前さんの蔭に隠れているわ」
 平常《ふだん》は危ない芸当を平気でやっている軽業の美人連も、実地の修羅場《しゅらば》では、どうしていいかわからないで一かたまりになって慄《ふる》えていると、そこへ一手《ひとて》の折助と遊び人とが、梯子伝《はしごづた》いにわっと集まって来ました。
「あれ、下へ来ましたよ、怖《こわ》い、親方さん、力持のおせいさん」
 美人連は号泣する。折助どもは先を争うて梯子からこの美人国へ乱入しようとして、わーっと喚《わめ》いて折重なって梯子から落ちました。
 それは力持のおせいさんが、いま必死の場合に、商売物の立臼《たちうす》を目よりも高く差上げて投げて落すと、臼に打たれた折助十余人が一度に転び落ちたものです。
 立臼の一撃で、折助どもも少し怯《ひる》んだが、直ぐに盛り返して梯子や小屋掛の丸太を足場にして、続々と登りはじめました。上からはあり合すもの、衣裳葛籠《いしょうつづら》、煙草盆《たばこぼん》、煙管《きせる》、茶碗、湯呑、香箱《こうばこ》の類、太鼓、鼓、笛や三味線までも投げ尽したが、もう立臼のような投げて投げ甲斐のあるものがありませんでした。力持のおせいさんは、鉄の棒を舞台に置いて来たことを歯噛《はが》みをして口惜《くや》しがるけれども、ここにはもはや莚《むしろ》よりほかに得物《えもの》がなくなってしまったから、やむを得ず莚をクルクルと捲いて、それを打振り打振って、登り来る奴輩《やつばら》を悩ましています。
 下では、折助と遊び人と木戸番と口上言いと出方と弥次馬とが、組んずほぐれつ揉《も》み合っていると、近所の小屋からまたまた加勢が来る、弥次馬が来る、それをよそにして、この美人連の隠《かく》れ家《が》を見つけ出した連中はいい気になってこの一角を占領して、美人連を分取《ぶんど》ろうとの興味から、蟻《あり》の甘きに附くが如く、投げられようと払われようと離れることではありません。
 それと見て親方のお角は歯咬《はが》みをしながら、
「さあ、みんな、何でもいいから刃物をお持ち、剃刀《かみそり》もここに五挺ばかりあるから分けて上げるよ、舞台で使う脇差《わきざし》、刃引《はびき》がしてあるけれども、これでもないにはマシだよ、傍へ寄ったらその剃刀で、面《かお》でも腕でもどこでもかまわないから、無茶苦茶に切っておやり、その脇差は切れないんだからつっついておやり、眼玉でも鼻でもなんでも遠慮することはないから突いておやり、なんにも持たない人は簪《かんざし》をしっかりと持っていて、いよいよ傍へ来た時に、面の真中へ突き通してやるんだよ、もし刃物を取られたら喰いついておやり、どこでもかまわず喰いついて引っ掻いておやり。おせいさん、お前は力持だから、お前をみんなが恃《たの》みにしているよ、しっかり頼みますよ、お前さん一人で十人も二十人も手玉に取っておやり、お前さんは刃物を持たない方がいいよ。なに、わたしだって五人や十人は相手にして見せるからね、たかの知れた折助なんぞに、この身体へ指でもさされてたまるものか」
 お角は剃刀一挺を手に持って、しきりと一座の美人連を励まして、自分も城を枕に討死の覚悟。
 力持のおせいさんはこれに励まされて、持っていた莚を抛《ほう》り出し、素手《すで》になって、登り来る折助|輩《ばら》の鼻向《はなむき》、眉間《みけん》、真向《まっこう》を突き落し撲り落す。その他の連中も、剃刀、脇差、簪の類、得物得物をしっかりと持って必死の覚悟。
「あれ――火がついた」
 吊られてあった篝火《かがりび》が、誰が切ったか地に落ちて、それが小屋の一角に燃えうつる。誰も消す人はない。
「あれ親方さん、火が。この小屋が焼けてしまいますよ」
 火を見た美人連は、せっかく励まされた勇気が一時に沮喪《そそう》しました。莚張《むしろば》りと幕と板囲いの小屋、火の手は附木《つけぎ》を焼くよりも早い、メラメラと天井まで揚る赤い舌。
「そうれ火事だ」
 組んずほぐれつしていた命知らず、さすがに火には驚いて、組打ちをしながら逃げようとして一層の大混乱。美人連を取囲んだ一隊は、早く攻め落して分取りをほしいままにしてから火を避けようと、強襲また強襲。
 火の威勢が、いよいよ天井を這《は》い上って、黒い煙と白い煙が場内に濛々《もうもう》と湧き出したその中から、
「うわーう」
 旺然《おうぜん》として物の吼《ほ》ゆる声が起りました。これは獣の吼ゆる声。この場の人間どもの怒号、叫喚、愚劣、迷乱を叱咤《しった》するようにも聞きなされて、思わず身の毛をよだてるほどの一声でありました。
 ムクは強いけれど、かわいそうに鎖《くさり》につながれていました。こんな騒ぎになる前に誰か気を利かして鎖を解いてやればよかったものを、その方には誰も気がつく者がなかったから、鎖につながれたままでいるうちに、火がその背後から燃え出しました。
「ああムクが繋がれている、ムクは強い犬だ、誰か行って鎖を解いてやらなくては焼け死んでしまう、かわいそうに、誰かムクの鎖を切っておやりよう」
 お角は気がついて高いところから叫んだけれども、組み合い押し合いで、誰もそれに応ずるものがありません。
 猛犬ムク! お角もよくその猛犬であることは知っています。ムクが吼えると、牛や馬までが竦《すく》んでしまったこともこの道中で実見しました。
 ムクが通ると、街道のいずれの犬も尾を捲いて軒の下へ隠れてしまったことも知っていました。桂川筋《かつらがわすじ》で一座の女が一人、橋を渡るとて誤って川へ落ちて押流された時、あれよあれよと騒ぐ人を駈け抜いて、ムクは水中へ飛び入り、着物の襟をくわえて難なく岸へ飛び上ったことも実見しています。旅芸人に因縁《いんねん》をつけたがる雲助や破落戸《ごろつき》の類が、強《こわ》い面《かお》をしてやって来た時にムクがいて、じっとその面を見ながら傍へ寄って行くと、雲助や破落漢《ならずもの》の啖呵《たんか》が慄《ふる》えてものにならなかったことも再三あるのを心得ていました。猛犬ムクは、第一にお君にとって忠実な家来であると共に、この一行にとっては、二つとなき勇敢なる護衛者であったことを、お角は今この場合において思い出さないわけにはゆきません。
「ムクを解いてやりさえすれば、ここにいる折助どもなんぞ幾人来たって怖くはない、ナゼ早くそこに気がつかなかったろう、力持のおせいを恃《たの》みにするよりは、あのムクの方がどのくらい強いか。ああ、早く鎖を解いて、このやつらに嗾《け》しかけて噛み散らかさしてやりたい、誰かムクの鎖を解いてやるものはないか」
 お角は自衛の剃刀を逆手《さかて》に持って、一方には寄せ来る折助の強襲に備えて味方を励まし、一方には繋がれたムクの方を見て焦《じ》れに焦れたが、
「ええ、仕方がない、ああしておけばムクは焼け死んでしまう、おせいさん、力持のおせいちゃん、お前はわたしに代ってここを守って、みんなの指図をしておくれ、わたしは今ムクを助けて来るから、ムクの鎖を解いて来るから」
「親方さん、危ない」
「ナニ、大丈夫だよ」
 お角は剃刀を口にくわえて、着物の裾をキリキリと捲《まく》る。
 今でこそ一座の親方になって自分は舞台へ立たないけれども、お角もこの道で叩き上げた女、高いところから舞台の方を見下ろして、人の頭の薄いところを見定めてヒラリと躍らして飛び下りた身の軽さ。
 お角が下へ飛び下りたのを見ると、
「それ、美《い》い女が飛び下りた」
 登りあぐねていた折助が、折重なってお角の方へ抱きついて来る。
「何をしやがるんだい、折助め」
 剃刀を振ると、鼻梁《はなばしら》を横に切られた折助の一人が、呀《あ》ッと言って面《かお》を押える、紅殻《べにがら》のような血が玉になって飛ぶ。
「この阿魔《あま》、太え阿魔だ」
 大勢の折助が、お角ひとりに折重なり折重なってとりつく。
「何をしやがるんだい、お前たちの手に合うような軽業師とは軽業師が違うんだ、ざまあ見やがれ」
 お角は血に染《し》みた剃刀を打振って、群がり来る折助の面を望んでは縦一文字、横一文字に斬って廻る。けれども、多勢《たぜい》を恃む折助、賭博打《ばくちうち》、後から後からと押して来る。揉《も》まれ揉まれてお角の帯は解けた、上着は辷《すべ》り落ちる、それを引っぱる、引きちぎる。真白な肉《ししむら》。お角はその覚悟で、下には軽業の娘の着る刺繍《ぬいとり》の半股引《はんももひき》を着けていた。剃刀一挺を得物の死物狂《しにものぐる》い、髪が乱れ逆立って、半裸体で荒れ狂う有様、物凄《ものすご》いばかり。しかし、いくら気が焦《あせ》っても多勢の男に一人の女。お角の剃刀はいつか打ち落されてしまうと、忽ちに手取り足取り。
「口惜しイッ」
 お角は歯噛みをしたがもはや如何《いかん》ともすることはできません。こうしてお角を取って押えた折助どもは、忽ち胴上げにして鬨《とき》の声を揚げて表の方へ担ぎ出す。高いところでそれと見た力持のおせいさん、
「あれ親方が捉《つか》まってしまった、この野郎ども、覚えていろ」
 城を守ることの任務を忘れて、お角を折助どもの手から取り戻すべく、やっと声をかけて力持のおせいは、高いところから飛び下りるには飛び下りたが――これは軽業が本芸ではない力持専門であるから、ヒラリと身を跳《おど》らしてというわけにはゆきませんでした。ただお角の危急を見て夢中でドシンと飛び下りたのは、臼を転がしたと同じことだから、下へ落ちても暫く起き上ることはできないのを、それと言って大勢が寄ってたかって押える。いくら荒《あば》れても、俯向《うつむ》きに落ちたところを上から押しつぶされたのだから動きが取れないでいるうちに、演芸用の綱渡りの綱を持って来てグルグルと縛って難なくこれも生捕《いけどり》。主将、副将ともに捕われた後の美人連は、惨憺《みじめ》なものであります。羊の中へ狼が乱入したように、ひとたまりもなく引っ抱えられて引っ担がれる、泣き叫ぶ、狂う。
 真先に大勢に担がれて行くお角は、歯を食いしばって、
「口惜しイッ、ムクはどうしたろう、なんだってムクに気がつかなかったんだろう、早く気がついてムクの鎖さえ解いてやっておけば、こんなことはなかったんだ、こうと知ったら君ちゃんにムクを附けてやればよかったものを、今となっては仕方がない、誰かムクを助けてやって下さい、ムクの鎖を解いてやって下さい。そうすればこんな折助なんぞ幾人来たって、こんな口惜しい目に会やしないのに。ムクを、ムクを、ムクの鎖を解いてやって下さいよう」
 声を限りに叫びました。

         九

 お君が神尾主膳に柳屋へ呼ばれて、三味線を取り直した時にこの騒ぎが起りました。
 お君は三味の糸を捲く手をとめて、
「何でございましょう、あの音は」
 廊下をバタバタと駈けて来た女中が、
「喧嘩でございます、あの女軽業の小屋の内へお仲間衆《ちゅうげんしゅ》が押しかけて、いま大騒ぎが持ち上ったのでございます、人死《ひとじ
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