「あの人たちは、まだこれから芸にかかるんだから身体があいてないよ」
「このまんまでは失礼でございますね」
「男衆の手もすいていないし、わたしが、ちょっと島田に纏《まと》めて上げよう」
「済みません」
「どうせ碌《ろく》なことはできやしないけれど、手っ取り早いのでは若い時から自慢なのよ」
鏡台の前でお角は、お君の真黒な髪を梳《す》きながら、
「君ちゃん、お前の毛はよい毛だねえ、こうして掴《つか》んでいると指が染まりそうだよ。そうしてお前さんには島田がいちばんよく似合ってよ、もう二三年すると丸髷《まるまげ》が似合うようになるだろう。わたしもお前さんを、いつまでもこんなところへ置くのは惜しいと思ってるんだよ、だから早くなんとかして上げたいと思っているんだから、そのつもりで稼《かせ》いで下さいよ。そのうちに容貌望《きりょうのぞ》みで玉《たま》の輿《こし》というようなこともないとは限らないから、くだらないものにひっかからないように。口上言いや折助《おりすけ》なんぞが、いくら色目を使っても、白い歯は見せちゃいけないよ。その代り、身分と身上《しんじょう》の確かな人であったら、年の違いや男ぶりなどはどうでもよいから……」
こんなことを言いながら親方の女は、見ているまにお君の島田を結《ゆ》い上げてしまいました。
「それでは行って参ります」
「ああ、行っておいで」
親方の女は、また煙草を吹かしながら、自分が結んでやった島田髷の手際《てぎわ》を、自分ながら惚々《ほれぼれ》と見ています。
「なんだか一人ではきまりが悪い、親方さん、あのムクを連れて行ってもようござんしょう、わたしはムクを連れて行きたい」
「ムクを連れて行く? ムクはこれから梯子登《はしごのぼ》りをするんじゃないか」
「それでも、ムクを連れて行きとうございますわ」
「子供のようなことをお言いでないよ、ムクの梯子登りと火の輪くぐりは呼び物になっていて、あれで一枚看板の役者なんだから、抜くことはできませんね」
「それでは、ムクの芸が済みましたらば、ムクをわたしの迎えに柳屋までよこして下さいな、ほかの方が来て下さるのもよいけれど、ムクをよこして下されば、なおわたしは有難いと思いますわ」
「それは芸が済みさえすればムクを迎えに出してやりますよ。それから、三味線を忘れずに持っておいで、お客様にお好みがなければそれまでだけれど、持って行っても邪魔《じゃま》にはなるまいから」
そう言われてお君は、手慣れた三味を抱えて小屋の裏を出ました。ちょうど、空が澄んで月が出ていました。
時は秋の末でも、小屋の中の蒸暑い空気から外へ出てみると、ひやりと身に沁《し》みる寂しい心。三味を抱えて客に招かれて行くわが身の影を見ると、間《あい》の山《やま》の過ぎし昔が思われます。故郷を出でて身はいま甲州の山の夜の露。わずか三月とはたたぬ間に変れば変るものかな。それにつけてもムクを連れないのが、なんとも言われず心細くてたまりません。古市《ふるいち》の大楼へ招かれては、夕べあしたの鐘の声を古調で歌って聞かせる時、追っても叱ってもムクばかりは離れることもなかったのに、今宵《こよい》他郷で久しぶりに、三味を抱えて月にうつるわが影が、たった一つであることが悲しくなってハラリと涙をこぼします……ムクは死んだわけでも殺されたのでもなんでもなし、つい呼べば来るところにいるのだけれど、お君は昔を思い出したからつい泣いてしまいました。
七
「役割《やくわり》、今日は一蓮寺のお開帳に行ってみようじゃござんせんか」
金助といって小才《こさい》の利く折助。
「そうよな、たびたび呼出しを受けてるんだから行ってみてもいい」
役割の市五郎は、金助から誘われて一蓮寺へ出かけてみようという気になったのは、一蓮寺の祭の夜は大きな賭場《とば》が開けているからです。
「お伴《とも》を致しやしょう、お伴を致しやしょう」
二人は相携えて城内から一蓮寺をさして出かけました。
「神尾の殿様にも困りものでございますな、ああなると手が附けられませんからな」
金助がいう。
「むむ、まったく困りものだ、甲府勝手へ廻されたのを自暴《やけ》で、ああしておいでなさるんだから、何をするか知れたものじゃねえ。金公、お前ぬからず目附《めつけ》をしていてくれねえと困る」
「へえ、承知でございます、お頼まれ申した通り、神尾の殿様のなさることは一から十まで、わっしが方へ筒抜けになっていますから、今日なんぞも一蓮寺の和歌《うた》の会へお出かけなさって、まだお帰《けえ》りのねえことまで、ちゃんと心得ているのでございます」
「そうか、大将もう一蓮寺へ出かけているのか。では向うへ行って、変なところでぶつかるかも知れねえ。金公、ここいらで一杯飲んで行こう、中へ入ると落着かねえから」
市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに供待《ともま》ちをしているのは、ありゃたしかに神尾の草履取《ぞうりとり》」
金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」
それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし馴染《なじみ》の上の其方《そのほう》、遠慮は要らぬ」
馴染と言われてお君は思わず面《かお》を上げました。しかし、どう思い返しても、こんなお侍に馴染と呼ばれるほど、贔屓《ひいき》にされた覚えはありません。
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている。珍らしいところで会ったからそれで昔馴染のような気がしてツイ、そちをここへ呼んでみる気になったのじゃわい」
「まあ左様でございましたか、伊勢の古市で……」
そこでお君も思い当る。思い当ったけれども、古市で呼ばれた客の数は多数であります、このお侍がそのうちのドノお客であったかということは、お君の記憶に残っていませんでしたけれども、あの時分に贔屓を受けたことのあるお客とすれば、やっぱりそれでも昔馴染。
「それとは存じませず失礼を致しました、お忘れなく御贔屓下されまして、かさねがさね有難う存じまする」
「それでよろしい、ここへ来て盃《さかずき》を受けてくれ、そして久しぶりであの間《あい》の山節《やまぶし》をまた一曲聞かせてもらいたい」
「恐れ多うございますからこちらで」
「なぜそのように遠慮をする」
敷居より内へは入らないお君、それをもどかしがって神尾主膳は畳を叩く。
「あの、お座敷では恐れ多うございますから、お庭先で御機嫌を伺った方が、手前の勝手にござりまする、あの古市で致しました通り、このお庭で御挨拶を申し上げましょう」
「なるほど、古市では座敷へ上らずに、庭へ莚《むしろ》を敷いて聞かせてくれたな。しかしそれはあの土地の慣例《しきたり》であろう、ここへ来てまでその慣例を守ろうとは愚《おろ》かな遠慮」
その時に、この庭の石灯籠の蔭で人の気配《けはい》がするのを、神尾主膳は早くも見咎《みとが》めました。
八
金助と離れた役割の市五郎は、ひとりで、例の女軽業の見世物小屋の前までやって来ました。
「なるほど、これが評判の女軽業か、ひとつ見てやろう」
懐手《ふところで》をしてヌッと、木戸番の前を通り抜けようとして木戸を突かれました。木戸番も役割とは知らなかったものか、それとも知っていながら面《つら》が憎かったものか、とにかく、市五郎がヌッと懐手で中へ入ろうとするのを押えてしまって、
「旦那、お銭《あし》をいただきます、木戸銭をお払い下さいまし」
と言ったから市五郎納まらないで、
「やい、面《つら》を見て物を言え」
ウンと木戸番を睨みつけましたが、木戸番とはいえ、多少江戸ッ児の気風を持っていたものと見え、肝腎《かんじん》の市五郎の面《かお》を見てかえってフフンと笑ってしまいました。
市五郎にとっては容易ならぬ侮辱《ぶじょく》ですから、ムカッと怒って、ポカリと一つ木戸番の横面《よこつら》を撲《なぐ》りつけました。
「この木偶《でく》の坊《ぼう》、ふざけた真似をしやがる」
木戸番は飛び下りて、市五郎の横面を撲り返しました。
「この野郎、俺を見損《みそこ》なったな、俺は役割だ、城内の役割だぞ」
「役割だか薪割《まきわり》だか知らねえが、あんまりふざけた野郎だ」
木戸番と役割とがここで組打ちを始めてしまうと、最初からこの近いところにいた口上言いや出方《でかた》や世話役の連中、これもあんまり市五郎が横柄《おうへい》で乱暴だから飛んで来て、
「おい、役割さんだというじゃないか、役割さんを撲ってはいけねえ」
仲裁するふりをしてポカリと撲ります。
「役割さんに失礼をしては済まねえ、八公、謝罪《あやま》ってしまいな」
と言ってまたポカリ、ポカリと撲ります。
「薪割ならばいくら撲ってもいいけれど、役割さんを撲るようなことがあっては、後で申しわけがないから早く手を放したり」
と言ってはポカリ、ポカリ、ポカリと撲ります。
「役割を撲るのはよくねえ、役割を十八も撲るなんてそんなことがあるものか、せめて十三ぐらいにしておけ」
続けざまにポカポカと撲りました。木戸の前にいた見物も、どちらかといえば見世物側に同情があって、市五郎の大面《おおづら》を憎がっていたのですから、そうなると面白がって、
「お前方は役割を撲るなんて、飛んでもないことをする、まあ俺たちに任してくれ」
と言っては市五郎をポカポカと撲る。気の毒なのは市五郎で、ポカポカと八方から拳《こぶし》の雨を蒙って、半死半生《はんしはんしょう》の体《てい》にまで袋叩《ふくろだた》きにされてしまいました。
「覚えていやがれ、役割の市五郎に、よくも恥をかかせやがったな」
役割が撲られたという噂《うわさ》が八方へ散ると、ちょうどその辺の賭場《とば》やなにかに集まっていた多数の折助が、それを聞きつけたからソレと言って飛び出して来ました、それで事が大きくなりました。
折助連中といえども、そう役割ばかりを有難がっているものはない。なかには市五郎がテラを取ったり頭を刎《は》ねたり、自分ばかり甘い汁を吸って、こちとらにはケチで、そのくせ、いやに大物《おおもの》ぶっているのを面憎《つらにく》がっているのもあるのですから、市五郎がここで撲られたことをかえって面白がって、都合によっては自分も大勢と一緒に袋叩きの方へ廻ろうという連中もないではないのですから。事情を聞けば、騒ぎはそんなに大きくならなかったかも知れませんが、なにしろ役割も市五郎ばかりではなく、なかには人望のある役割もあるのだから、そのいずれの役割が撲られたのか、次第によっては折助|一統《いっとう》の面《かお》にかかわると思って博奕《ばくち》半ばで飛び出すと、かねて折助と懇意にしている遊び人連中がその加勢にと飛び出して、哄《どっ》と女軽業の前へ押寄せて来ました。
こうなると、この女軽業一軒ではなく、すべての見世物小屋がパッタリと商売を止めて、女芸人や年寄は避難させ、丈夫そうなやつだけが合戦の用意をはじめます。長井兵助などは、長い刀をしきりに振り廻しました。
けれども騒動の中心になったのはやはり娘軽業。木戸も看板も滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に叩きこわされて、木戸前で組んずほぐれつしていた群集は、ドッとばかりに場内へ乱入してしまいました。そこで、また敵味方、弥次馬もろともに、入り乱れて撲り合い噛み合いになりました。
見物の中で血の気の多いのは、頼まれもしないに弥次馬の中へ飛び込んで、喰い合い噛み合います。幸いに見物
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