はついに兵馬に逐われてどこへか行ってしまいました。
「どこの畜生だか知らねえが、人を脅《おどか》しやがる畜生だ、この近所ではついぞ見かけたことのねえ畜生だが、いやはや、馬鹿と狂犬《やまいぬ》ほど怖いものはないと太閤様が申しました」
 木の上から下りて来た男を何者かと見れば、これはさきほど、役割の市五郎を見舞った折助の金公でありました。さすがきまりの悪い面《かお》をして、それでも兵馬に礼を述べるより先に犬の悪口をはじめます。
「なんだって旦那、わっしがこの村へちっとばかり用事があって甲府から出かけて来ると、そこの森の中から、のそりと飛び出して来やがったのがあの犬でございます。なんだか気味の悪い眼つきをして、わっしの面《かお》を見つめながら後をくっついて来るでしょう、癪《しゃく》に触るから、いま旦那がなすったように、石を振り上げて追い払おうとしますと、あいつが凄い声で唸りましたね。その声でブルブルと、わっしは慄え上ってしまいましたよ。旦那のように睨みが利きませんから逃げ出しました。とうとうここまで追い詰められてこんな怪我をした上に、ごらんなさい、着物の裾なんぞはこの通りズタズタでございます
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