い、お腰の物で二つにぶった斬ってやっておくんなさいまし、とてもとても、石なんぞで驚く犬じゃございません、斬ってしまわなけりゃ駄目でございます、どうかお斬りなすっておくんなさいまし」
木の上では男が喚《わめ》く。
「エイ」
兵馬が打った石礫《いしつぶて》、猛犬の額に発矢《はっし》と当る。犬は一声高く吠えて飛び退き、爛々《らんらん》たる眼《まなこ》を以て遠くから兵馬を睨む。二つ目の石を兵馬が振り上げた時に、何と思うたか犬はクルリと廻《めぐ》って、兵馬の面《かお》を睨みながら鷹揚《おうよう》に後ろへ引いて行く。犬は兵馬の面とその手中の石とを見比べながら、徐々《しずしず》と引上げて行く態度、ちょうど、名将が戦い利あらずと見て、味方を繰引《くりび》きに引上げる兵法がこの態度であろうと、兵馬は敵ながら獣ながら、その退却ぶりの雄大にして痛快なのに感心せずにはおられませんでした。上杉謙信が退却する時にはこんな陣立《じんだて》であろうかとさえ思わせられました。
「石なんぞで驚く犬じゃございません、ぶった切っておくんなさいまし」
木の上でガムシャラに叫んでいるにかかわらず、兵馬はこの石で犬を逐い、犬
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