残《なごり》であることは申すまでもありませんが、その風聞《ふうぶん》は兵馬の耳へはまだ入っていませんでした。
 その土手のところも通り過ぎ、竜王村というところへ出ようとする広い畑の中道で、
「頼むよう、助けてくれ!」
 白昼とはいえ、人通りのあまりないところで助けを叫ぶ人の声、
「頼む! 頼む! 助けてくれ」
 足を留めて見ると、およそ二町ばかりを距《へだ》てた道の傍らの柿の木と覚《おぼ》しい大きな木の上で、しきりに助けを呼んでいる者がある。
 これはおかしい、木の上で、ひとりで呼んでいる。気狂《きちが》いではあるまいかと兵馬は思いました。木の上に登って助けてくれというのは、たいてい大水の場合に限るようです。下を見れば水も何もありはしない、尋常平凡な畑道の中で、木の上から助けを呼ぶのはおかしいと思いながら、宇津木兵馬はその方へ急いで行って見ると、木の下に真黒な動物。
 なるほど、犬に逐《お》われたな、狂犬《やまいぬ》だろう、大きな犬だ、あれに逐いつめられて木の上へ登って、そこから助けを呼んでいるというのは笑止《しょうし》なことだ、その声を聞けば子供でもないようだが、大の男が犬に逐われて
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