勇気が一時に沮喪《そそう》しました。莚張《むしろば》りと幕と板囲いの小屋、火の手は附木《つけぎ》を焼くよりも早い、メラメラと天井まで揚る赤い舌。
「そうれ火事だ」
組んずほぐれつしていた命知らず、さすがに火には驚いて、組打ちをしながら逃げようとして一層の大混乱。美人連を取囲んだ一隊は、早く攻め落して分取りをほしいままにしてから火を避けようと、強襲また強襲。
火の威勢が、いよいよ天井を這《は》い上って、黒い煙と白い煙が場内に濛々《もうもう》と湧き出したその中から、
「うわーう」
旺然《おうぜん》として物の吼《ほ》ゆる声が起りました。これは獣の吼ゆる声。この場の人間どもの怒号、叫喚、愚劣、迷乱を叱咤《しった》するようにも聞きなされて、思わず身の毛をよだてるほどの一声でありました。
ムクは強いけれど、かわいそうに鎖《くさり》につながれていました。こんな騒ぎになる前に誰か気を利かして鎖を解いてやればよかったものを、その方には誰も気がつく者がなかったから、鎖につながれたままでいるうちに、火がその背後から燃え出しました。
「ああムクが繋がれている、ムクは強い犬だ、誰か行って鎖を解いてやらな
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