かねえから」
 市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
 この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに供待《ともま》ちをしているのは、ありゃたしかに神尾の草履取《ぞうりとり》」
 金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
 金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」

 それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし馴染《なじみ》の上の其方《そのほう》、遠慮は要らぬ」
 馴染と言われてお君は思わず面《かお》を上げました。しかし、どう思い返しても、こんなお侍に馴染と呼ばれるほど、贔屓《ひいき》にされた覚えはありません。
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている
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