れを拾うてくれる、男の世話にもなり、女の世話にもなる、世話になるということは誉《ほまれ》のことではあるまい、いわんや一匹の男、女の世話になって旅をし病を養うというのは、誉ではあるまい、それを甘んじているおれの身も、またおかしなものかな。おれは女というものではお浜において失敗《しくじ》った、お豊においては失敗らせた、東海道を下る旅、道づれになったお絹という女、あの女をもまた、おれはよくしてやったとは思わぬわい。おれは女に好かれるのでもない、また嫌われるのでもない、男と女との縁は、みんな、ひょっとした行きがかりだ、所詮《しょせん》男は女が無くては生きて行かれぬものか知ら、女はいつでも男があればそれによりかかりたいように出来ている。恋というのは刀と刀とを合せて火花の散るようなものよ、正宗《まさむね》の刀であろうと竹光《たけみつ》のなまくらであろうと、相打てばきっと火が出る、一方が強ければ一方が折れる分のことだ。おれをここまでつれて来て湯に入れてくれる女、それはあの女の親切というものでもなければ色恋《いろこい》でもなんでもない、ちょうどあの女が夫を失うて淋《さび》しいところへ、おれが来たから、その淋しさをおれの身体で埋めようというのだ、おれが山家の樵夫《きこり》や炭焼でない限り、それであの女の珍らしがり方が多い分のこと。しかしおれには人の情を弄《もてあそ》ぶことはできない、親切にされれば親切にほだされるわい。いっそ、おれは、あの女の許《もと》へ入夫《にゅうふ》して、これから先をあの女の世話になって、山の中で朽《く》ちてしまおうか」
竜之助はこんなことを考えていると、
「やあ、吉田竜太郎殿ではないか」
浴室の外から呼ぶものがありました。
その声で、竜之助は空想を破られる。
「わしを吉田というのは?」
「君は眼が悪いのか、眼をどうしたかい」
「この通り眼が見えない」
「眼が見えなくても声でわかるだろう、拙者の声がわからんか」
「聞いたような声じゃ。おお、山崎ではないか」
「そうじゃ、山崎じゃ。久しぶりで意外なところで会ったな」
「全く意外なところ。おぬしはあれからどうしていた」
「いや、おぬしこそどうしていた、この物騒《ものさわ》がしい世の中に悠々として湯治《とうじ》とは」
「これにはなかなか長い物語がある、湯から出て、ゆっくり話そう」
「それよりも、その眼をどうしたのか、それを聞きたい」
「これは十津川《とつがわ》でやられた。京都から引返して来るときに、伊賀の上野で天誅組の壮士というのに捉《つか》まり、それと一緒になって十津川へ後戻り、山の中で煙硝《えんしょう》の煙に吹かれてこうなってしまった」
「それは気の毒、全く見えないのか」
「初めのうちは少し見えたが、今は全く見えない」
「そりゃ災難じゃ、なんとか療治の仕様もありそうなものじゃ」
「療治も相当にやってみたが、本来、天のなせる罰《ばち》が報《むく》うて来たのだから」
「罰? 気の弱いことを言うな」
「どうも人間業《にんげんわざ》では癒るまいよ。それがために世間のことは一向わからぬ、近藤や土方は無事でいるか、芹沢との折合いはどうじゃ」
「君はそれを知らぬか、いやそりゃ、大変なことじゃ、四方八方、蜂の巣を突きこわしたようなもので、どれから話していいか」
「そうだろう」
山崎と呼ばれた男は易者《えきしゃ》のような風をしていたが、浴室の中へ入って来て小さい声で、
「まず第一、芹沢が殺されたことを吉田、お前は知っているか」
「芹沢が……誰に」
「仲間に殺された」
「仲間の誰に」
「仲間といえばたいてい見当がつくだろう。芹沢が殺されると、近藤が新たに新撰隊というのを組織してその隊長になって、土方が副将でそれを助けることになった」
「うむなるほど、いやあれは、どちらかそうなるだろうと思うた」
「それから次が四条小橋、池田屋騒動の一件だ。血の雨を降らしたこと降らしたこと、貴殿もいたら、みっちり働き甲斐のある仕事であったわい」
「浪人を斬ったのか」
「斬った斬った、今でも池田屋へ行って見ろ、天井も壁も槍の穴でブスブス、血と肉が、あっちこっちにべたべたと密着《くっつ》いているわい」
「そうか」
「それにまた一方では、拙者の郷里水戸の地方に筑波山《つくばさん》の騒ぎが起ってな」
「筑波山の騒ぎとは?」
「それも知らないのか。水戸の家老武田耕雲斎が、天狗党というのを率いて乱を起した、それやこれやで拙者は関東と京都の間を飛び廻っている、ことに甲州の山の中にめざす者があって、ここへ来たわけじゃ」
竜之助に向ってこういう話をする男、これは新撰組の一人で山崎|譲《ゆずる》という男、かつて竜之助が逢坂山《おうさかやま》で田中新兵衛と果し合いをした時に、香取流《かとりりゅう》の棒を振《ふる》って仲裁に入った男、変装に巧《たく》みで、さまざまの容姿《なり》をして、壬生《みぶ》や島原の間、京洛《けいらく》の天地を探っていた男。
「ともかく、湯から上ろう、もっと委《くわ》しい話を聞かしてくれ」
山崎譲は後刻を約して、そこを立ち去ってしまうと、それと入り違えのようにお徳が入って来ました。
「そうしておいで遊ばせ、今お背中を流して上げますから」
湯から出ようとする竜之助の傍へ寄って、手拭を固く絞ってお徳は、その肩へ手をかけて背中を洗ってやろうとします。
「それは気の毒」
竜之助はお徳のなすままに任せて辞退もしない。
お徳は筒袖をまくり上げて、裾が湯に濡れないように気をつけながら、竜之助の背中を流しはじめていると、この温泉の上の方で賑わしい人の声。
「あれは何だろう」
「あれはお慶《めで》たいことでござんす」
「はあ、何か人寄せがあるな」
「この山の上の望月《もちづき》様という郷士《ごうし》様のお邸へお嫁様が参りなさるそうで」
「婚礼があるのか、道理でさいぜんから時々賑わしい人の声が聞えると思うた」
「望月様は、この辺の山を預かる御大家でござんすから、もうこの近所の人はみんなよばれて朝から大騒ぎ、今夜もまた夜徹《よどお》し飲み明かしなさるのでござんしょう」
「それは盛んなことじゃ。そうして嫁御寮《よめごりょう》はもうこっちへ着いたのか」
「お嫁さんは前の日、わたしもちらと見ましたが、山家《やまが》には惜しい器量のお嫁様でござんした」
「どこから来たのじゃ」
「同じ甲州でござんすけれども、ここからはだいぶ離れておりまして、萩原領の八幡《やわた》村というところからお輿入《こしいれ》でござんすとやら」
「八幡村?」
竜之助は何をか思い当って、
「八幡村というのは、石和《いさわ》と塩山《えんざん》に近いところではないか」
「左様でござんす、左様でござんす、あちらの入《いり》でございます」
「その八幡村からここへ嫁入りに来たのか」
「はい、向うもなかなか大家だそうでございますが、こっちはそれよりも大家で、お眼が見えればすぐおわかりでござんすが、白壁作りの黒塀《くろべい》で、まるでお城のような構え、権現様よりもずっと前から、この近辺の金の出る山という山を、みんな預かっているお家柄でござんすから、ああしてお祝いが幾日も続くのでござんす」
「なるほど」
いま会った山崎譲の話では、関東も関西も鼎《かなえ》のわくような騒ぎ、四海の中《うち》が浮くか沈むかという時勢であるそうな。それにこの山里では、お嫁取りの飲み明かし歌い明かし、そぞろにその泰平《のどか》さにほほ笑まれるのであったが、その来る嫁というのが甲州八幡村と聞いて竜之助は、また思わでものことを思わねばならぬ。それは、わが身にとって悪縁の女、お浜の故郷が、やはりその八幡村であったからであります。
「そのお嫁さんを一目見たいものだな」
「それはお目にかけたいくらいの美しいお嫁様で」
竜之助は冗談のように言うと、お徳は本気で答える。
「八幡村というところには、わしの親類……でもないが知合いがある」
「ああ、そうでござんすか、それではことによると、あのお嫁さんも御存じのお方かも知れませぬ」
「いいや知るまい、私はその八幡村というところへ行ったことはないのじゃ、ただ懇意な人の口から聞いて知っているばかり」
「左様でござんすか、いずれ明日にも、お嫁様のお里帰りがあるでござんしょうから、その時ごらんになると……そのとき誰かにお聞きなすってみましたら」
「別に聞いてみたいこともないのだが、なんとなくそのお嫁様を一目見たいような気持がする」
その夜、竜之助は山崎譲と夜《よ》更《ふ》くるまで語り合ったが、山崎は竜之助にいろいろと忠告をしたり、早く故郷へ帰るように、道中の不便があらば、知合いの甲府の勤番《きんばん》に頼んでやると親切に言ったが、竜之助はなんとも別に定まった返事をしなかったけれども、先を急ぐ山崎は若干の見舞金と、甲府の勤番へ宛てての竜之助の身の上依頼状などを認《したた》めておいて、その翌日、ここを立ってしまいました。山崎を送った竜之助は、ひとり宿の二階の欄干に凭《もた》れていると、
「あれ、お嫁様が」
という遽《にわ》かの騒ぎ。
「あれが望月様の若奥様。まあごらんなさい、あの髪の毛、あのお面色《かおいろ》、あの髪飾りの鼈甲《べっこう》の、水の滴《したた》るような襟足《えりあし》の美しさ、あのお紋付、あのお召物、あの模様……ほんにお館様《やかたさま》のお姫様とても、これほどのことはおありなさるまい」
姦《かしま》しい人の声。ははあ、これが、いわゆる八幡村から来たという嫁御寮、ただでさえ物見高い嫁入騒ぎ、このあたりの大家ということであるから、物珍らしい山家の人には、さながら信玄公の姫君でも御入来《ごにゅうらい》になったように騒ぐのだなと思っているところへ、お徳が入って来て、
「さあ、あれが先程お噂《うわさ》を申しました、望月様のお嫁御寮、あなた様が一目見たいとおっしゃったお方、いま直ぐこの下を通りますのでございます」
お徳は手を拭きながら、これも御多分に洩れず、珍らしそうに息を弾《はず》ませて飛んで来て、竜之助のいる二階の欄干から下を見て、
「あれで十九。十九にしては落着きがおあり過ぎなさるほど。それはお人柄《ひとがら》がよいからでござんしょう、お婿様《むこさま》よりは一段|勝《まさ》っておいでなさる、お婿様は好いお人だけれど、なんだかそれほどに威がないようなお方、それがかえってよろしゅうござんしょう。何しろあの大家を踏まえて行くには、旦那様よりも奥様が、これからしっかりあそばさなくてはなりませぬ、好いところへお嫁入りすればするほど、お仕合《しあわ》せもお仕合せだがお骨も折れましょう」
お徳が、こんな独言《ひとりごと》を言っている間に、嫁御寮の一行はゾロゾロとこの家の下を通り過ぎて行ってしまいます。
「ほんとうに、あんなお嫁様をお持ちになったお婿様の果報が思いやられます、お里帰りの五日が、どんなにお待遠しいことでしょう、両方の親御さんたちも本当にこれで御安心。ああいうことを見ますと、ひとごとでも嬉しくてたまりませぬ」
「里帰りといえば、これからあの八幡村まで帰るのか」
「左様でござんす、お馬やら釣台《つりだい》やら、あとからあの通り続いて参りますが、なんでも御旧家のこと故、すっかり古式でやるのだそうでござんす」
「いや婚礼というものは、慶《めで》たいことではあろうけれど、なかなか手数のかかるものじゃ」
「誰でも一生に一度は、その手数をかけねばならぬものでござんす。あなた様なぞもさだめし、こんなにおなりなされぬ前は、あんな手数をかけて、お喜びになったものでござんしょう」
お徳は愛嬌《あいきょう》よく言う。
「あたりまえならば、そんなことになるのであったろうが、わしのはあたりまえの道を失ってしまったから、それで更に手数がかからなかった」
七
旗本の神尾主膳《かみおしゅぜん》はお預けから、とうとう甲府|勝手《かって》に遷《うつ》されてしまって、まだ若いのに、もう浮む瀬もない地位に落されたが、当人はいっこう平気らしくあります。
地位の
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