大菩薩峠
白根山の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)最期《さいご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|瓢《ぴょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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一
机竜之助は昨夜、お絹の口から島田虎之助の最期《さいご》を聞いた時に、
「ああ、惜しいことをした」
という一語を、思わず口の端から洩らしました。
そうしてその晩、お絹は夜具を被《かぶ》って寝てしまったのに、竜之助は柱に凭《もた》れて夜を明かしたのであります。
その翌朝、山駕籠《やまかご》に身を揺られて行く机竜之助。庵原《いおはら》から出て少し左へ廻りかげんに山をわけて行く。駕籠わきにはがんりき[#「がんりき」に傍点]が附添うて、少し後《おく》れてお絹の駕籠。
山の秋は既に老いたけれども、谷の紅葉《もみじ》はまだ見られる。右へいっぱいに富士の山、頭のところに雲を被っているだけで、夜来の雨はよく霽《は》れたから天気にはまず懸念《けねん》がありません。
お絹は駕籠の中から景色を見る。竜之助は腕を組んで俯向《うつむ》いている。
「百蔵さん」
お絹はがんりき[#「がんりき」に傍点]のことを百蔵さんと呼ぶ。
「何でございます」
「まだその徳間峠《とくまとうげ》とやらまでは遠いの」
「もう直ぐでございます、この辺から登りになっていますから、もう少しすると知らず知らず峠の方へ出て参ります」
「なんだか道が後戻《あともど》りをするような気がしますねえ」
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を突込《つっこ》んで行くと同じことで、爪先下《つまさきさが》りに富士川まで出てしまうんでございますから楽なもので」
と言いながら、竜之助の駕籠《かご》わきにいたがんりき[#「がんりき」に傍点]が、お絹の駕籠近くへやって来て、
「それでもまあ、天気がこの通り霽《は》れましたからよろしゅうございます」
「天気はよいけれども、お前さんのために飛んでもないところへつれ込まれてしまいました」
「へへ御冗談でしょう、あなた様の御酔興《ごすいきょう》で、こんな深山の奥へおいでなさるのですから」
「でも、お前さんが、山道は景色が好いの、身延《みのぶ》へ御参詣をなさいのと、口前《くちまえ》をよく勧《すす》めるものだから」
「はは、その口前の好いのはどちらでございますか、この道は険《けわ》しいから、あなた様だけは本道をお帰りなさいと先生もあれほどおっしゃるのに、山道は大好きだとか、身延山へぜひ御参詣をしたいとかおっしゃって、わざわざこんなところへおいでなさる。いや、これでなけりゃあ、竹の柱に茅《かや》の屋根という意気にはなれませんな」
「そんなつもりでもないけれど、わたしも実は本道が怖《こわ》いからね。七兵衛のような気味の悪い男に跟《つ》けられたり、人を見ては敵呼《かたきよば》わりをするような若い人に捉まったりしては災難だから、それでわざわざ廻り道をする気になりました」
「いや、どっちへ廻っても怖いものはおりますぜ、この道を通って身延へ出るまでには、きっと何か別に怖い物が出て参りますよ」
「おどかしちゃあいけませんね、何が怖いものだろう」
「ははは、別に怖いものもおりませんが、山猿が少しはいるようでございます、それから、どうかすると熊が出て参ります」
「怖いねえ」
「先生が附いているから大丈夫でございますよ」
竜之助は前の駕籠で、二人の話を耳に入れている。がんりき[#「がんりき」に傍点]もなれなれしいが、お絹もなれなれしい。二人ともになれなれしい口の利《き》き様《よう》であります。
お絹という女、誰にでもなれなれしい口の利き方をする。旗本のお部屋様として納まっていられない女。気象《きしょう》によっては、こんな男と言葉を交すのでさえも見識《けんしき》にさわるように思うのであるに、この女は、それと冗談口《じょうだんぐち》をさえ利き合って平気でいます。
がんりき[#「がんりき」に傍点]が昨夜の言い分、お絹はそれを知らないから、平気で話をしているが、たとえ冗談にもせよ、そういうことを聞いている竜之助にとっては、二人のなれなれしい話し声を不愉快の心なしに聞いているわけにはゆくまいと思われます。
「ここが峠の頂上でございます」
ようように山駕籠が徳間峠の上へ着きました。
「さあ若い衆さん、休んでくれ」
徳間峠の上で二つの駕籠が休む。がんりき[#「がんりき」に傍点]は腰に下げていた一|瓢《ぴょう》を取り出して、
「先生、お一つ、いかがでございます」
駕籠の中の竜之助に持って行って、次に、
「若い衆さん、お前も一つどうだね」
「へえ有難うございます」
この駕籠舁《かごかき》は海道筋《かいどうすじ》の雲助と違って、質朴《しつぼく》なこの辺の百姓。
「御新造様《ごしんさま》、一ついかがでございます」
「駕籠を出ていただきましょう」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が、また猪口《ちょく》を出す手先をお絹は見咎《みとが》めて、
「百蔵さん、お前の手はそりゃ……」
「ええ?」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は驚いて手を引込ませ、
「ナニ、いたずらでございます」
と言って、左右の駕籠舁の方に気を兼ねるらしい心持。けれども質朴な駕籠舁は、この時に眼を見合せました。
「こりゃ甲州無宿の入墨者《いれずみもの》だ、この入墨者を峠から一足でも甲州分へ入れた日にゃあ、こっちの首が危ねえ」
こう言って駕籠舁どもが、一度に立ち上って噪《さわ》ぎ出しました。
「抜いた抜いた!」
噪ぎ出した駕籠舁が急に仰天して逃げ出します。見れば駕籠から出た机竜之助が刀を抜いて立っていました。
「先生、何をなさいます」
竜之助は物を言わず、逃げて行く駕籠屋は追おうともせずに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の声のする方へ向って来ますから、
「あ、危のうございます」
がんりき[#「がんりき」に傍点]も驚く、お絹も驚く。驚いて逃げるがんりき[#「がんりき」に傍点]の方へ寄って行く竜之助、ふらふらとして足許《あしもと》が定まりません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、竜之助の刀を避けて、楢《なら》の木の蔭へ隠れる。白刃《しらは》を閃《ひら》めかした竜之助は、蹌踉《そうろう》として、がんりき[#「がんりき」に傍点]の隠れた楢の木の方へと歩み寄る。
「先生、御冗談じゃありません、わっしをどうしようと言うんでございます」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は木の蔭から叫ぶ。その声をたよりに刀を振りかぶった竜之助。
「先生、眼が見えるんでございますか、わっしをお斬りなさるんですか」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、刀を振りかぶった竜之助の形相《ぎょうそう》を見てまた驚く。静かに歩み寄る足取りが盲目の人とは思われない。閉じた眼が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》に向いて輝くような心持がしますから、
「あ、危ねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、楢の木の蔭に居堪《いたたま》らないで、身軽に飛んで、高さ一丈余りある国境《くにざかい》の道標の後ろへ避ける。
「是《これ》より甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》……
是より駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして徐々《そろそろ》と歩み寄る。
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から梨子割《なしわ》り。後ろを見せれば背を割られる。進退|窮《きわ》まって道標の蔭から竜之助の隙《すき》をうかがう。
そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりき[#「がんりき」に傍点]はたまらなくなって、
「おい、御新造様《ごしんさま》、先生は気が違ったぜ、なんの咎《とが》もねえわっしをお斬りなさろうと言うんだ、あ……危ねえ」
この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりき[#「がんりき」に傍点]の右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ颯《さっ》と紅葉《もみじ》。
「あ痛えッ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「狂人《きちがい》に刃物とはこれだ、手が利いているだけに危なくって寄りつけねえ、御新造様、早く逃げましょう、ぐずぐずしているとお前様も殺《や》られちまいますぜ」
尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
お絹は、さすがに狼狽《ろうばい》して途方に暮れているのを、
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで疾《と》うに逃げてしまいました。駕籠屋の逃げたのは駿河の国、がんりき[#「がんりき」に傍点]お絹の逃げたのは甲斐の領分、双方ともに後をも見ずして逃げ去ったあとに、ひとり残る竜之助。
刀の血振《ちぶる》いをして道標の柱へ手をかけてほっと一息。
やがて持っていた刀をそこへ投げ出すと斉《ひと》しく、道標の下へ崩折《くずお》れるように倒れて、横になって落葉の上へ寝てしまいました。
昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪《ふじおろし》が音を立てて、梢《こずえ》の枯葉を一時に鳴らすのでありました。
竜之助は道標の下に倒れて、昏々《こんこん》として眠っている間に、サーッと雨が降って来ました。時雨《しぐれ》の空ですから、雲が廻ると雨の落ちるのも早い。
ちょうど雑木《ぞうき》の蔭になったところで、いくらか雨は避けられるようになっているが、葉末から落ちる時雨の雫《しずく》がポタリポタリと面《かお》を打つので竜之助が、うつらうつらと気がついたのは、あれから、やや暫らくの後のことでした。
「雨が降っているようだな」
まだ本当に正気には返らないで、昏倒《こんとう》から醒《さ》めかかった瞬間の心持は、連々《れんれん》として蜜のように甘い。時雨の雫がポタリポタリと面を打つことが、かえって夢うつつの間を心持よくして、いったん醒めかかってまた昏々として眠くなるうちに、
「ああ、水が飲みたい」
で、また我に返りました。
せっかく、よい心持で、いつまでも眠りに落ちようとするのに咽喉《のど》はしきりに水を飲みたがって、
「水、水、水」
譫言《うわごと》のように言いつづけたが、誰も水を持って来てくれそうな者はなく、水を欲しがる竜之助の面へは雨の雫がポタリポタリと落ちて来るばかりです。
こういう時の夢には、滾々《こんこん》としてふき出している泉や、釣瓶《つるべ》から釣られたばかりの玉のような水、草叢《くさむら》の間を潺々《せんせん》と流れる清水などが断えず眼の前に出て来るもので、
「あ、有難い、水」
と言って竜之助は、それを手に掬《むす》んで口へ持って来ようとすると、煙のようになくなってしまいます。
竜之助は、これもかなり長い時の間、夢うつつの境に水を求めて昏倒していましたが、村方の方からは駕籠だけも取り
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