戻しに来そうなものだが、それも来る様子はなし、腕を斬られて逃げたがんりき[#「がんりき」に傍点]と、それと一緒に逃げたお絹の方からも何の音沙汰《おとさた》もなし。
「まだ雨が降っているようじゃ」
 もうかれこれ日は暮れる。その時分ようやく正気がつきかけると、さて自分はいま峠の上に寝ているな、うむ、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]という奴を斬った、駕籠屋が逃げた、そもそもここは甲斐と駿河の境だと彼等の話に聞いていた、その前にかの古寺、その前は……それにしても水が飲みたい――
「水、水」
 咽喉は乾いてゆくけれど、昏睡《こんすい》の慾が強くて、ややもすれば深き眠りに落ちようとする。
 ここは甲州入りの抜道《ぬけみち》、滅多《めった》に人の通るところでないことが、寝ている竜之助のためには幸か不幸か。このまま深い眠りに落ちてしまっては……よし眼が覚めたところでこの人には、どちらへどう行ってよいか方向がわかるまいけれど……

         二

 甲斐の白根山脈と富士川との間の山間一帯に「山の娘」という、名を成さない一団体の女子連《おなごれん》があります。
 仕事の暇な時分に、山の娘は他国へ行商に出かける。
 山の娘は、揃いの盲縞《めくらじま》の着物、飛白《かすり》の前掛《まえかけ》、紺《こん》の脚絆手甲《きゃはんてっこう》、菅《すげ》の笠《かさ》という一様な扮装《いでたち》で、ただ前掛の紐とか、襦袢《じゅばん》の襟《えり》というところに、めいめいの好み、いささかの女性らしい色どりを見せているばかりであります。娘といっても、なかにはかなりのお婆さんもあるけれど、概して鬼も十八という年頃に他国へ出入りして、曾《かつ》て山の娘の間から一人の悪い風聞《ふうぶん》を伝えたものがないということが、山の娘の一つの誇りでありました。
 なんとなれば、これらの娘たちが、もし旅先で、やくざ男の甘言《かんげん》に迷わされて、身を過《あやま》つようなことがあれば、生涯浮ぶ瀬のない厳《きび》しい制裁を受けることになってもいるし、娘たち自身も、その制裁を怖るるよりは、そんな淫《みだら》なことに身を過つのを慙《は》ずる心の方が強かったからであります。
 それと共に、一隊の間には、たとえ離れていても糸を引いておくような連絡が取れていて、一人が危難に遭うべき場合には、たちどころに十人二十人の一隊が集まり得るようにしてあるから、たとえいかなる悪漢でも、その中の一人を犯すことはできないのでした。故に山の娘は、知らぬ他国へも平気で出入りして怖るることがないのであります。それとまた、山の娘の一徳は秘密を厳守する力の優れたことで、彼等の間において約束された秘密は、それは大丈夫が金石の一言と同じほどの信用が置けるのであります。女は秘密の保てないものという定説が、山の娘だけには適用しない、彼等はその仲間うちの秘密を他に洩らすことのないように、得意先の秘密と人の秘密をも洩らすようなことは決してないのです。大塩平八郎の余党の中には甲州へ落ちたものが少なからずある、その中の幾人かは、この山の娘たちによって隠され保護されて一身を全うしたという説は、あながち嘘ではないようです。
 ちょうど降りかかった時雨《しぐれ》を合羽《かっぱ》で受けて、背に負うたそれぞれの荷物を保護しながら、十余人のこの山の娘が、駿河路《するがじ》から徳間峠《とくまとうげ》へかかって来たのは同じ日の夕方でありました。
「さあ、峠の上へ着きましたぞい」
「福士《ふくし》まで行って泊らずかい」
 組の頭《かしら》は、さきに竜之助、お絹の一行が乗り捨てた山駕籠のところまで来て、
「まあ、ここに駕籠が二つも乗り捨ててあるが、どうしたものであろうなあ」
「物扱いの悪い人たちじゃ」
 その駕籠の周囲へ山の娘の一隊が集まる。
「身延様参《みのぶさままい》りは、折々この道を通る人がありますから、それが……はて、煙草入が落ちていたり、駕籠の中には蒲団《ふとん》や包みがそのままであってみたり……」
 彼等はようやく異様な眼で、そこらあたりを見廻し、
「おお、怖い、落葉の中に光る物が……」
 最も早く見つけたのは、組の中でもいちばん若い人。
「あれあれ、血の塊《かたまり》が……」
 山の娘の一人が絶叫する。
「血の塊と言わんすか」
 駈けて行って見ると、
「おう、気味の悪い、人の片腕、こりゃ人間の片腕ではございませぬかいなあ」
 落葉の上の片腕、血は雨に打たれてドロドロにとけて流れている。
「ああ、ここには人が一人殺されて倒れていますわいなあ」
「ナニ、人が殺されて?」
 山の娘は、今度は走り出さないで、十余人が一度にかたまってしまう。針鼠《はりねずみ》は危険に遭うた時は、敵へ向っては反抗しないで、かえってわが身を縮める。山の娘たちもまた、危難の暗示ある時は、遠のいていたものが必ず密集する、そうして組の頭《かしら》の取締りの者がまず口を開くまでは、なんとも言わないのが例となっているのでした。
「皆さん」
 真中に立った頭の女は三十ぐらいの年頃で、血色がよくて分別のありそうな人。
「はい」
 一同は神妙に返事をする。
「身延参りをなさんす旅の人が、今これで追剥《おいはぎ》にあいなさったようじゃ。これから先の道が危ない。皆さんたち甲州入りをなさる気か、それとも駿河の方へ帰りますか」
「それは姉さん次第」
「それなら皆さん、駿河へ帰るも甲州へ入るも人家までは同じぐらいの道程《みちのり》、いっそ甲州へ入ることに致しましょう」
「承知しました」
「わたしが先へ立って参ります、お浪さん後からおいでなさい、いちばん若い人を真中にして」
「心得ました」
「わたしが音頭《おんど》を取りますから、人家へ出るまで皆さん、歌をうたって下さいまし」
「よろしゅうございます」
「それで、人家へ着いたなら、お役人の方へ御沙汰《ごさた》をしなくてはならぬから、一通り、あの人の殺されているところを調べて参りましょう。さあ一緒になって」
 一団になった山の娘は粛々《しゅくしゅく》として道標の傍《かたわら》へやって来る。
「長い刀……」
 頭のお徳は竜之助が捨てた刀を落葉の中から拾い取る。
「この片腕……」
 血が雨で洗われている片腕――さすがに気味を悪がって面《かお》を反《そむ》ける。
「この人は、こりゃお武家じゃわいな」
 恐る恐る竜之助の傍へ寄る。
「水、水が飲みたい」
「え、えッ!」
 山の娘たちは一足立ち退く。
「生きていますぞいな、このお人は」
「なんぞ物を言いましたぞいな」
 年嵩《としかさ》のお徳とお浪とは、竜之助の傍へ再び寄って来て、
「もし」
「うーむ」
「もし」
 背を叩《たた》いて呼んでみて、
「このお人は生きてござんす、その片腕を切られたのは、このお人ではござんせぬ、薬を飲まして呼び生《い》けて上げましょう」
 薬はお手の物。
「水があるとな」
「どこぞ捜《さが》して来ましょうか」
 若いのが一人出ようとするから、
「いいえ、離れてはなりませぬ、一足なりと一人でここを出てはいけませぬ。皆さん、笑いなさんな、このお人に、わたしが口うつしでこの薬を飲まして上げるから」
 山の娘の頭《かしら》のお徳は、気付けの薬を自分の口へ入れて噛《か》む。
 竜之助を抱いてお徳は、口うつしに薬を飲ませる。
 男に許すことを知らない山の娘も、人を助ける時には大胆な挙動をする。よし、これが竜之助でなくして、道に倒れた悪病の乞食であったにしても、その一命を取り返す必要があれば、山の娘は必ずこういうことをするのです。
 無論、一行の中には、それを怪しむものもなければ笑うもののありようはずがない。
「はーっ」
と気が開《ひら》けた竜之助。
「お気がつきましたかいなあ」
「有難い」
「お気を確かにお持ちなさいませ」
「もう大丈夫」
 竜之助は身を起して、道標の傍に立とうとしたけれど足がふらふら。
「お危のうござんす」
 山の娘たちが押える。
「このお刀はあなた様の……」
「ああ、そう。いや、どうも有難い」
「拭いて上げましょう」
 山の娘は手拭《てぬぐい》で刀を拭いて竜之助に渡す。
「ここに人の片腕が斬り落されてござんすが、こりゃどうしたわけでござんすかいな」
「ああ、それは……」
 竜之助は刀を鞘《さや》に納めながら、
「悪い奴が出たから斬ったのじゃ」
「悪い奴、その悪い奴は、片腕だけを残してどっちへ参りましたかいな」
「いずれへ逃げたか知らぬ、斬ると逃げた、そのままわしは眠くなってここへ倒れて寝た故に、前後のことは更にわからぬ」
「悪い奴でござんすなあ。皆さん、その手をここへ持って来て、お武家様にお目にかけるがよいぞや、お見覚えがありなさんすかも知れぬ」
「それもそうでござんすな」
 お浪が拾って来た、がんりき[#「がんりき」に傍点]の片腕。
「どうぞこの悪い奴の片腕を、篤《とく》とごらん下されましな」
「はは、わしは眼が見えぬのじゃ、この通り不自由者じゃ」
「お目がお不自由……まあ、そうでござんしたか、それは失礼なことを」
 山の娘たちは、今更のように竜之助の面を見る。
「ああ、皆さん、この片腕はなあ」
 腕を持って来たお浪が、何か気がついたように叫ぶ。
「その片腕が、どうなさんした」
「この片腕には入墨がしてありますぞいな。この入墨は甲州入墨といって、甲州者で悪いことをしたのが、甲府の牢屋《ろうや》へつながれて追い出される時に、この入墨をされるのじゃわいな」
「まあ、どこにそんな入墨が」
「これ、この通り、手首から五寸ほどのところに二筋の入墨」
 なるほど、斬り落された腕にはその通りの入墨がある。
「案《あん》の定《じょう》、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了《おお》せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交《かわ》る交る舁《かつ》いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」

         三

 東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵《いわぶち》から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島《とおじま》、左が万沢《まんざわ》で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりました。兵馬は要路の人から証明を貰っているから、いつ、どこの路をも滞《とどこお》りなく通過することができるので、七兵衛は兵馬と一緒に歩く時のみはその従者として通行するが、一人で歩く時は、到るところのお関所を超越してしまいます。
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
 兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州|訛《なま》りがありますのと、それからあいつの手に入墨があるのでございます、そいつが甲州入墨と、ちゃんと睨《にら》んでおきましたよ」
「甲州入墨というのは?」
「手首と臂《ひじ》の間に二筋、あれこそ甲府の牢を追放《おいはな》しにされる時に、やられたものに違いございません」
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに怖《おど》っかする人間ではございません。なんでもこの辺の間道《ぬけみち》を通って、甲州入りをしたものに違いございませんが、あいつが盲目《めくら》と足弱をつれて、どういう道行《みちゆき》をするかが見物《みもの》でございます。これから川岸を西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《き
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