りくぼ》、福士《ふくし》と行くうちに、何かひっかかりが出て来るから見ていてごらんなさい、無事に身延まで伸《の》せたら、この七兵衛が兜《かぶと》を脱いでしまいます」
「しかし、間道から身延へ出ないで、信濃路へ紛《まぎ》れ込むようなことはなかろうか」
「どうしてどうして。あれごらんなさい、あの白根山《しらねさん》の山つづき、鳥獣《とりけもの》でさえも通《かよ》えるものではございませぬ。どのみち、水が低いところへ落ちて来るように、あの道を出たものは、いやでもこの富士川岸へ落ちて来るのが順なのでございますよ」
「もしまた、さきにこの川へ出て、船で逆に東海道へ戻ってしまうようなことはなかろうか」
「それは何とも言えません……なにしろこの川は、鰍沢《かじかざわ》から岩淵まで十八里の間、下る時は半日で下りますが、これを上へ引き戻すには四日からかかりますからな。しかし、やっぱり舟にも関所がありましてね、舟改《ふなあらた》めをされますから、舟で逆戻りをするようなことになると、かえって毛を吹いて疵《きず》を求めるというようなことになりましょう、それは大丈夫でございます」
「舟改めはどこでやります」
「やはりこの万沢と十島とでやるのでございます。それにひっかかって御覧《ごろう》じろ、入墨者と女と、それからお尋ね者のような、あの竜之助様、忽ちに動きが取れなくなってしまうのでございますから、大丈夫、舟へかかる気遣《きづか》いはございません」
「七兵衛どの、そなたの言うように、あの三人が果して一緒におるものやら、それとも離れ離れになっているものやら、それもようわからぬではないか」
「三人は三《み》つ巴《どもえ》のようになって、ちょっとは離れられない組合せになっているのがおかしゅうございます。それとも離れる時には、どれか一つ命が危ない時で、まかり間違えば三つ共倒れになるのが落ちでございますから、そーっと置くのがかえって面白いんでございますがね」
 こんな話をしながら兵馬と七兵衛は、富士川岸の険路を、前に言ったように西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《きりくぼ》と過ぎて、福士川《ふくしがわ》のほとりへ来た時分には日が暮れかかっています。
「昨日の雨で、少し水が出たようでございますが、ナーニ、このくらいなら大したことはございません、川留めになるようなことはございません」
 水のひたひたと浸《つ》いた板橋を渡りながら、
「この川は富士川の支流《わかれ》か知らん」
「富士川の支流ではござんすまい、駿河境の方から出て富士川へ流れ込むのでございましょう。これだけの流れでございますが、雨上りにはかえってこんなのが厄介で……」
と言いさして、板橋を半ばまで渡り来《きた》った七兵衛、そこで立ち止って、流れの少し上手《かみて》の方をじっと見る。
「宇津木様、少しお待ちなすって下さいまし」
 七兵衛は、先へ行く兵馬を呼び止めて、自分はやっぱり川の少し上手の方を見ています。
「どうしました」
「どうも何だか、あすこに変なものが、あの石と石との間に挟まっておりますな」
「おお、何か白いものが……」
 夕暮れのことであり、少し離れているところでしたから確《しか》とは見定め難いけれど、
「どうやら、人間の腕のように見えますが、あなた様のお眼では……」
「左様、わしが眼にもどうやら……」
「向うへ廻ってよく調べてみましょう」
 一旦、板橋を渡りきって七兵衛は、岩の間を飛び越えてそこへ行って見る。
「宇津木様、この辺でございましたな」
「そこへ真直ぐに手を伸ばせば……」
「それではこの棒で突き出してみますから、そちらで受けて下さいまし」
 岩の間に淀《よど》みもせず流れもせず、ふわりとしていたものを七兵衛が上から棒で突き流すと、兵馬の足許へ流れて寄ったのは、
「おお、たしかに人の片腕」
「なるほど、人の片腕に違いございませんな」
 七兵衛はその片腕を棒の先で砂洲《さす》の上へ掻《か》き上げて、腕を一見すると、意味ありげな笑い方。
「こんなことだろうと思った」
 兵馬にはその意味がよく呑込めないでいると、
「宇津木様、図星《ずぼし》でございますよ」
「図星とは?」
「この通り、御覧下さい、この腕に二筋の入墨がございます、これがさいぜんお話し申し上げた、甲州入墨でございます」
「なるほど」
「どうか、スパリとこの腕をやった切口をよく御覧なすって下さいまし、斬手がどのぐらいの奴だか、それをよく御覧なすって下さいまし」
「ははあ」
 兵馬は篤《とく》とその切口を見る、手は右の二の腕から一刀に。
「よく切ってある」
「さあ、斬った奴は生きてるか、斬られた奴は死んでしまったか、これからがその詮議《せんぎ》でございますよ。どのみち、この川上の仕事に相違ございません」
「尤《もっと》もだ」
「今晩はこの福士へ泊って、土地の人によく地の理を聞いてみましょう。地の理を聞いてから、この川上へ行って見ると、思いにつけぬ獲物《えもの》があるかも知れませんよ。なんでもこの川沿いに、駿河へ出る路が別にあるに相違ありませんですね。そうなれば、もうこっちのものでございますよ」
 七兵衛はなお川上を見る。兵馬はその腕をよく見ている。
「この腕がここへ流れつくまでには、かなりの時がたったであろう……斬って逃げたか、斬られて逃げたか」
「眼があんなでなけりゃあ、腕だけで逃す斬手ではございませんがね。またこっちの奴にしたところで、片一方斬られて、それなりで往生する奴でもございません。ところであのお絹という女、あの女がどっちへついて逃げたか、それは考え物ですね。この腕はこうして置くもかわいそうだから、砂の中へ埋めておいてやりましょう。まあ、あの野郎も、この腕一本のおかげで命拾いをしたと思えば間違いはござんすまい、この腕はあの野郎にとっては命の親でございますから、そのつもりでお葬《とむら》いをしてやりましょう」
 七兵衛は棒の先で砂場へ穴を掘って、足の先で腕を蹴込《けこ》んで、砂をかぶせて、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》をいう。

         四

 福士の宿屋へ泊った七兵衛と兵馬。
 七兵衛は行燈《あんどん》の下で麻を扱《しご》いて、それを足の指の間へ挿《はさ》んで小器用に細引《ほそびき》を拵《こしら》えながら、
「ねえ、宇津木様、知らぬ山道を歩くには、この細引というやつがいちばん重宝《ちょうほう》なものですよ、こいつを持って歩いてると、まさかの時にこれが命の綱となるのでございます」
 兵馬は旅日記を書いていましたが、
「なかなか、器用に撚《よ》れますな」
「へえ、子供の時から慣れておりますからな。子供の時分に、こうして凧糸《たこいと》を拵えたものでございますよ」
 七兵衛は見ているまに二間三間と綯《な》ってゆく。
「長い道中をする者は、これと火打道具だけは忘れてはなりません。あなた様なんぞは煙草をお喫《の》みなさりはしますまいが、それでも火打道具だけはお忘れなすってはいけませんでございます」
「それは忘れはしない」
「私共のように煙草を喫みますと、火打道具は忘れろと言っても忘れることじゃござんせん。おやおや、そんなことを言ってる間に、煙草が喫みたくなって参りました」
 七兵衛は細引をやめて煙草入れを取り、日記を書いている兵馬の方をちょいと覗《のぞ》き込みながら、
「大分、御精が出ますね」
「日記は、忙《せわ》しくともその日に書いておかねば、あとを怠る故」
「感心なことでございます。私共なんぞも若い時に、もう少し勉強をしておけば、もう少しよい人になったものでございましょうが、貧乏や何やかで、つい学問の方に精を出すことができませんで、今となっては後悔《こうかい》先に立たずでございます、若いうちに御勉強をなさらなくてはなりません」
 七兵衛は述懐《じゅっかい》めいたことを言う。
「おやおや、絵図をお書きになりましたね。なるほど、甲州入りの絵図でございますね。よくこんなに細かにお書きなすったものでございますね。私なんぞはこの甲州を通ることが幾度あるか知れませんが、まだ絵図面を取ってみようというような考えを起したこともございませんのに、さすがにあなた様は」
 七兵衛は兵馬が書いた甲州図を見て、
「なるほど、こちらの方が西川内領《にしかわうちりょう》、ここが万沢《まんざわ》でございますな。こちらが東川内領で十島《とおじま》。なるほど、この富士川を上ってここが福士、それから身延鰍沢《みのぶかじかざわ》、信州境から郡内《ぐんない》、萩原入《はぎわらいり》から秩父《ちちぶ》の方まで、よく出ておりますな。中へ入れば、これでずいぶん広いところもありますけれど、こうして見れば本当に甲州は山ばかりでございますな」
「いや、これはほんの見取図で、まだこれへ書き入れないほかの山や川や村がいくらもあるでしょう」
「そう言われるとそうでございますね。信州|佐久《さく》の方へ出るところに、まだこのほかに一筋の路がございますよ。相州口にも、まだちょっとした間道《ぬけみち》がございますがな、それは処の案内者でないとわかりませんでございますよ。なるほど、この福士から富士川を上って徳間へかかって、駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》へ出る道は記してございますな。明日はこの道をひとつ、行ってみようというんでございますな」
「七兵衛どの」
 兵馬はようやく筆を休めて、
「さてどうも長の旅路を、いろいろとお世話にあずかってかたじけない、なんともお礼の申し様《よう》もござらぬが、そなたの仕事の障《さわ》りにはなりませぬか。こうしてお世話になることは、拙者にとってはこの上もない有難いことなれど、農事やその他の妨げになるようなことはないか、それがいつも心配で……」
「またしてもその御心配、それはお止めになされませ、そういうことにかけては私共は、これで気楽な身分でございます」
 兵馬は七兵衛の素姓《すじょう》をよく知らないのです。ただ自分の娘にしているお松のために尽す行きがかりで、自分に尽してくれるのだと、こう思っています。
 一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り上方見物《かみがたけんぶつ》をするつもりで、あなた様のお伴《とも》をして相当のお力になるつもりでございます」
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が迅《はや》い、兵馬にとってはこの上もない力であります。
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を巡《めぐ》って歩くのが何より楽しみなのでございますから、どうか打捨《うっちゃ》ってお置きなすって下さいまし。それからもう一つは、あのお松の爺父《おじい》さんというのを切った奴、それを探してやりたいんで。こうなってみると、おたがいに意地でございますから、首尾よくあなた様が御本望《ごほんもう》をお遂げなさるまではお伴《とも》していたいのでございます」
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
 兵馬は何の合点《がてん》もなく、ただ笑うばかり。
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことでは
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