ないんで、うっかり七兵衛とおっしゃると罰《ばち》が当りますよ」
「罰が当る?」
「そうでございます、御承知の通り私共は韋駄天《いだてん》の生れかわりでございまして、下手《へた》に信心をするとかえって罰が当ります」
 こんな話をしてその晩はここに泊り、兵馬と七兵衛はその翌朝、暗いうちに福士川の岸を上ります。
 岸がようやく高くなって川が細くなる。細くなって深くなる。峰が一つ開けると忽然《こつねん》として砦《とりで》のような山が行手を断ち切るように眼の前に現われる。七兵衛は平らな岩の上に立って谷底を見ていたが、
「この水は、あの山を右と左から廻《めぐ》ってここで落合《おちあい》になるようだが、徳間はあの山の後ろあたりになるだろう、ここらあたりから向うへ飛び越えて行けば妙だが」
 山の裾《すそ》から谷底、向うの岸をしばらく眺めているうちに、
「はて、この谷の中に何かいるようだ」
 七兵衛は蔽《おお》いかぶさった木の中から谷底を覗《のぞ》く。なるほど、ガサガサと物の動くような音がします。
「宇津木様、この下に何かいますぜ、熊か猪か、それとも鹿か人間か、ひとつ探りを入れてみましょう」
 手頃の石を拾って谷底へ投げ落すと、
「危ない、誰だい石を投げるのは」
 谷底から子供の声。
「おや、子供の声のようだ」
 七兵衛は深く覗き込んで、
「誰かいたのかい」
「人間が一人いるんだよ」
「人間が……そんなところで何をしているんだい」
「何をしたっていいじゃないか、お前こそ上で何をしているんだい」
「俺は旅人だが、下で音がするようだから石を抛《ほう》ってみた。そこにいるのはお前一人か」
「私一人だよ、もう石を抛ってはいけないよ」
「もう抛りはしない、その代り道を教えてくれないか」
「お待ち、今そこへ登って行くから」
「いいよ、お前が登って来なくても、こっちから下りて行く」
「危ないよ、上手に下りないと岩の上へ落ちて身体が粉になるよ」
「大丈夫――宇津木様、こんな谷底で子供が一人で何をしているのだか、ひとつ下りて行ってみましょう」
 七兵衛は兵馬を残して、木の根と岩角《いわかど》を分ける。
「小僧さん、どこだい」
「ここだよ」
 屏風《びょうぶ》のようになった岩の蔭。水を飛び越えて七兵衛は声のする方へ行って見ると、笠をかぶって首から肩へ袋をかけて、尻切半纏《しりきりばんてん》を着た十五六の少年が一人、水の中を歩いています。
「山魚《やまめ》でも捕るのかい」
「そうじゃないよ、もっと大きな物を捕るんだ」
「山魚より大きなもの――それでは鰻《うなぎ》か鱒《ます》でもいるのかい」
「そんな物じゃあない、もっと大きな物よ」
「鰻や鱒より大きなもの――はてな、こんなところにそんな大きな魚がいるのかね」
「いるから捕りに来るんじゃないか」
「なるほど、鰻や鱒よりも大きい……まさか鮪《まぐろ》や鯨《くじら》がいるわけでもあるまいな」
「ははあだ、鮪や鯨よりもっと大きな物がいるんですからね、お気の毒さま」
 人を食った言い分で七兵衛もいささか毒気《どっき》を抜かれます。
「鮪や鯨より、もっと大きなもの――それをお前はそのお椀《わん》で掬《すく》って、その袋へ入れようと言うんだね」
「そうだよ、その通り」
 ああ言えばこう言う、少しも怯《ひる》まぬ少年。
 なるほど、少年は手に一箇の吸物椀《すいものわん》を持っていて、それで水の中を掻き廻していたのです。右のお椀で水の中を掻き廻して掬い上げると、鮪も鯨も入ってはいない、ただ川の中の砂がいっぱい。
「どうだ、おじさん、わかったかい、これは鮪や鯨より大きいものだろう」
「何だい」
「このピカピカ光る物をごらん」
「はてな」
「このお椀を左右へこんなに動かすと、それ、だらだらと砂が溢《こぼ》れる。砂が溢れると、あとに残るのがこのピカピカする物。おじさん、これを何だと思う」
「なるほど」
「知らなけりゃ教えてやろう、こりゃ黄金《きん》というものだよ。黄金というものは、この世でいちばん大したものなんだ、鮪や鯨より、もっと大きなものなんだ」
「なあーるほど」
「国主大名のような豪《えら》い人でもこの黄金の前には眼が眩《くら》むんだよ、花のような美しい別嬪《べっぴん》さんでも黄金を見れば降参するんだよ。どんな者でも、この黄金の前へ出れば顔色が変るんだから、なんと大したものじゃねえか」
「なるほど、こいつは恐れ入った」
「この甲州という国は、昔から金が出る国なんだよ」
「そりゃわかった、黄金の話はまた後から聞かしてもらおう。小僧さんや、あの山はありゃ何という山だい」
「あれか、あれは土地では燧台《のろしば》と言っているが、昔はお城があったところ、今はお化《ば》けと狼が住んでいるんだ」
「お化けと狼が?」
「あの裏山へ廻ればお化けと狼がいるという話だけれど、こっちの方を通ればそんなものは出て来やしない」
「けれども、あっちを通れば徳間の方へは近いのだろう」
「近いには近いけれど、なにも、わざわざお化けや狼に食われに行かなくてもよかろう」
「そうお前のように、いちいち理窟攻めにされてはたまらない、ただ聞いてみただけのことだよ」
「だから親切に教えて上げるんだよ、燧台《のろしば》の後ろへは土地の人だって行きゃしない」
「そうして小僧さん、お前はお化けや狼の出るという山の傍で、鮪《まぐろ》や鯨より大きな金目《かねめ》のものを持っていて、それで怖《こわ》くはないのかい」
「ナニ、怖いことがあるものか、悪いことをしていなけりゃ怖いことはねえ」
「それでもお前、その袋にいっぱい入っている黄金《きん》の塊《かたまり》を盗まれたらどうする」
「ははは」
「泥棒が、お前の後ろから不意に出て来て、その黄金の塊をよこせと言ったらどうする」
「ははは、よこせと言ったら遣《や》っちまうよ、この袋の中にある黄金なんぞは、いくらのものでもありゃしない」
「でもお前、大金だろう」
「ナーニ、これっぽっち。気の利いた泥棒はこんなものに目をくれやしない、俺《おい》らはまだ、ウンと山の中へ隠しておくんだ」
「どこの山へ」
「そりゃ教えるわけにはいかねえ」
「ちっとわけてくれないかい」
「おじさん、黄金が欲しけりゃ、私の弟子におなりよ、一山当てれば何百万両になるんだから、泥棒よりよっぽど割がいいよ」
 七兵衛はこの子供にまくし立てられてしまいそうで、思わず苦笑《にがわら》いをしたが、
「ときに小僧さんや、お前は金をたずねてこうして山奥を歩いているらしいが、私共はちと人を尋ねてこの山の中へ来たもんだ。お前はこの二三日に、この入《いり》で人を見かけなかったかい」
「見かけたよ」
「どんな人を見かけたい」
 七兵衛も少し乗気になる。
「山の娘たちを見かけたよ」
「山の娘たちというのは?」
「山の娘たちというのは、この国から出て、他国へ商売に行って、この国へ戻る娘たちのことだよ」
「そうか、そのほかには?」
「そのほかにはお前さんを見かけたばかりだ」
「刀をさした人とか、脇差《わきざし》を持った人、そんな人は見かけなかったかい」
「そんな人は……そんな人は見かけなかったよ」
「では、その山の娘たちというのは、どっちから来てどっちへ行ったえ」
「それは駿河の方から来て、この少し先の入《いり》から篠井山《しののいざん》の方へ廻ったようだ」
「そうか」
 七兵衛はついにそれより以上の要領を得なかったから、
「有難う、小僧さん」
「さようなら、おじさん」
 七兵衛が岩を飛び越えて、また上へ登ってしまうと、暫くして金掘《かねほ》りの少年は、
「うまく嚇《おどか》してやった、人を尋ねると言ったのは大方あのことだろう、燧台《のろしば》の後ろへ行くとお化けと狼が出ると言ったら本気にしていやがった」
 椀《わん》を袋へ納めて牛の背のような岩の上へのぼる。
「おーい」
「おーい」
 高いところの七兵衛と兵馬、谷の中の金掘り少年と呼び交《か》わす。
「右へ、右へ」
 少年が右の方を指さすのに、兵馬と七兵衛はそれを知りながら面を見合せて左へ向う。
「右へ、右へ」
 少年はしきりに叫びながら手を振って、
「おやおや、あの二人は左へ廻ったな、すると藤蔓橋《ふじづるばし》のあるところを知ってるのかしら、あれを渡られるとちっと困るぞ」
 上の二人は、燧台に近い細道を川沿いに、
「あの小僧、なかなか人を食った小僧でございます、この山の後ろへ廻ると、お化けと狼がいるなんぞと大人を嚇《おどか》す気になっているが、どのみち近いに越したことはございませんから、この辺をひとつ向うへ突っ切って、この燧台の後ろへ廻ってみましょう」
「なるほど、この山は要害の山、狼火《のろし》を上げて合図をするに都合のよかりそうな山だ」
「左様でございます、土地の人は燧台とも言うし、城山とも言うそうでございますから、昔は城があったものでございましょう」
「あれ、あの小僧が手を振っている」
「右へ、右へと怒鳴《どな》っていますな。おやおや動き出した、木の椀が転がり落ちた、それをまた拾っている。いやあれは椀カケとも言い、揺鉢《ゆりばち》とも言って、あれで川の底や山の間の砂を淘《よな》げてみて金の有無《あるなし》を調べるんで。しかしあれだけの子供で、あれだけの慾があるのはなんにしても感心なことだ。甲州人というやつは、一体になかなか山気《やまき》がある。あの小僧なんぞも、あれでよく抜けたらエラ者になりそうだ。あれ、見えなくなってしまった、また谷底へ下りたかな。おや、あの山道を駆けて行く、どこへ行く気だろう」
 金掘りの少年は山の小径《こみち》をドンドンと駆ける、駆けながら独言《ひとりごと》、
「あのおばさんが、江戸へ連れて行ってくれると言ったから、江戸へ行ってしまうんだ、こんな山の中では出世ができない、いくら黄金《きん》を持っていても、それを上手に使わなければ詰らねえ、黄金を上手に遣《つか》うには都へ出なければ駄目だ、山へ来て黄金を取って都へ出て遣うんだ、黄金は人に掘ってもらって、自分はいつでも都にいて、遣って儲《もう》けていた方がいいだろう。それはそうと、いま向うの岸を廻った二人連れ、あれは、どうやら剣呑《けんのん》だ、早く行っておばさんに知らせてやろう」
 燧台の裏へ先廻りした金掘りの少年は、岩の間へ掛け渡した、半分は洞窟《ほらあな》になった小屋へ駆け込んで、
「おばさん、おばさん」
 笠も袋も投げ出し、
「人が来るよ」
 暗いところから面《かお》を現わして、こっちを見たのは、意外にも徳間峠を逃げたお絹の姿でありました。
「忠作さん、どんな人が来ます」
「五十ぐらいの合羽《かっぱ》を着た人が一人と、それから、まだ前髪のある若いお侍が一人」
「ああ、それでは……」
 お絹は、
「忠作さん」
 金掘りの少年の名は忠作というらしい。
「なに」
「今あの人は寝ているから、あのままにしておいて下さい」
「ようござんす」
「それから忠作さん、お前は江戸へ出たい出たいと言っていましたね」
「ああ、おばさん、お前がつれて行ってやると言ったじゃないか」
「ええ、あの人の創《きず》が癒《なお》ったらつれて行って上げるつもりでいましたよ」
「早く癒ればいいな」
「いつ癒るか知れないからね……」
「早く癒してやりたいな」
「早く癒してやりたいけれども、こんなところではお医者さんもなし、お薬もないから、いつ癒るんだか知れやしない」
「気の毒だな」
「それだから忠作さん、こっちへおいで」
 お絹は、そっと奥の方を気遣《きづか》うこなしで、静かに立って忠作を表の方へ誘い出し、耳に口を当てるようにして、
「気の毒だけれど、あの人をああして置いて、二人で江戸へ行ってしまいましょうよ」
「ええ?」
 忠作は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってお絹の面《かお》を見上げ、
「あんなに怪我をした人を置放しにして出かけるのかい」
「でも、いつ癒るんだか知れやしないもの」
「だって、それはおばさん、薄情というものだろう、あの人を置放しにして出かけて行ってしま
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