うなんて」
「そうしてもいい人なんだよ、あの人はお前、本当は泥棒なんだよ」
「泥棒?」
「ああ、泥棒で悪い奴なんだから、助けない方がかえってためになるのですよ」
「だって、おばさん、お前は連れの人で、道で追剥《おいはぎ》に遭ってこんなことになったと話したじゃないか」
「それは、お前を驚かさないようにわざとそう言っておいたのよ、本当はあの人は泥棒で、入墨者といって、あの人をかくまったことが知れれば、お前もわたしも罪になるのだよ」
「どうして、おばさんはそんな人と連れになって来たの」
「それにはわけがあるんだけれど、今お前が知らせてくれた人が来るというのは、きっとお役人か何かだろうと思う、それで早く逃げなければお前もわたしも縛られてしまう」
「そりゃ困ったな」
「さあ、お前案内して、間道《ぬけみち》の方から早く逃げておくれ」
「だっておっ母《かあ》が里へ行ってまだ帰らねえし、それから……」
「そんなことを言ってる時ではありません、甲府まで逃げれば知った人もありますから、後はまたなんとでもなります」
「それじゃおばさん、逃げよう」
「早くそうしておくれ」
「待っておいで、大事なものを持って来るから」
「何を持って来るの」
「黄金《きん》を」
「黄金を?」
「穴蔵《あなぐら》の中に蔵《かく》してあるから、あれを持って来るよ」
「病人に触《さわ》らないようにね」
「ああ、いいよ」
忠作は、また奥の洞窟の方へ取って返して一包の袋を重そうに提げて来ました。
「これだよ」
「中に何があるの」
「黄金」
「黄金というのは、あの小判《こばん》にするお金のことなの」
「そうだよ」
「どうしてそんな物を持っているの」
「俺《おい》らの死んだ父《ちゃん》と俺らと二人で、山や谷を探して見つけ出しておいたものだよ、これだけあればおばさん、三年や五年は楽に暮して行けると言ったよ」
「それがみんな黄金なら大したもの、三年や五年どころではない、一生、楽に暮して行けるかも知れない」
「それではおばさん、これを持って行こう、きっと江戸へつれてっておくれ、江戸へ行ったらこの黄金を売っておばさんにもお礼をするから」
「そんなませ[#「ませ」に傍点]たことを言うものではありません、さあ、それを持ったら早く」
「間道《ぬけみち》から、おばさん、万沢へ出ようよ、その方が順だから」
「どっちでもお前のいいように」
「けれども、あの人を一人で置くのはかわいそうだな」
「大丈夫だよ、今に役人が来て、つれて行ってしまうから。ぐずぐずしているとこっちが危ないのだから」
「それでは……里へ行ってるおっ母《かあ》が帰って来ると心配するだろうから」
「だって当分は帰らないと言ったそうじゃないか」
「二月ほど経ったら帰るかも知れない」
「そんな暢気《のんき》なことを、聞いてはいられない」
「おっ母は里へ行って、またほかの人にお嫁に行くんだと言っていたから、もうここへは帰らないのだろう」
「それでは誰も心配する者はないはずだから、早く行きましょう」
「江戸はいいところだろうな、人の話に聞いたばかりで、早く行って見たい見たいと思ったが、今日はおばさんに連れて行ってもらえるかと思うと、こんな嬉しいことはないけれど、この小屋も住み慣れてみると何だか惜しいような気がするね」
この場合に、江戸へ行きたがっていた少年の心をお絹が心あって焚《た》きつけるので、少年はすっかりその気になって、大急ぎで旅立ちの用意をします。このとき奥で、
「御新造《ごしんぞ》、いやお絹さん」
譫言《うわごと》のような声、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の声。
「何か言ってるよ」
耳を澄ますと、
「御新造、いやどうも」
二人は面を見合せて、
「あれ、また何か言っている」
奥では引続いて、
「いよ、お二人様」
二人は奥を見込んで、
「眼が醒《さ》めたのかしら」
奥の声、
「もうこっちのものだ」
お絹忠作はニッコリと笑って、
「魘《うな》されているんだよ」
奥では、つづいて、
「これからがこっちの世界と出る、へん、甲州ばかりは日が照らねえ、入墨がどうしたと言うんだ、これから御新造をつれて、泊り泊りの宿を重ねて鶏《とり》が鳴く東《あずま》の空と来やがる、嫉《や》くな妬《そね》むな、おや抜きゃがったな、抜いたな、お抜きなすったな、あ痛《いて》ッ、あ痛ッ、斬ったな、汝《うぬ》、斬りゃがったな」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の譫言《うわごと》は嵩《こう》じてくる。その間にお絹は忠作を嗾《そその》かして、この小屋を逃げ出してしまいました。
五
今宵《こよい》は月がよく冴《さ》えている。主婦《あるじ》のお徳は庭へ出て砧《きぬた》を打っていると、机竜之助は縁に腰をかけてその音を聞いています。
ここは篠井山《しののいざん》の山ふところ、お徳というのは先日、峠の上で竜之助を助けて来た「山の娘」たちの宰領《さいりょう》であります。
お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の筒袖《つつそで》を着て、手拭を被《かぶ》って砧を打つと、その音が篠井山の上、月夜段《つきよだん》の奥までも響いて、縁に腰かけた竜之助の足許から股《もも》のあたりまでが、軽い地鳴りで揺れるのがよい心持です。
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も入用《いりよう》のない身になったけれど、それでも物の音だけはよくわかります。いや、眼が見えなくなってから、耳の方が一層よくなったようじゃ。そうして御身がいま打つ砧の音を聞いていると、月が高く天に在って、そしてそこらあたり一面には萩の花が咲きこぼれているような心持がします」
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござんした……月見草はよい花でございます」
「あれはさびしい花であるが、風情《ふぜい》のある花で、武蔵野の広々したところを夕方歩くとハラハラと袖にかかる、わしはあの花が好きであった」
「先《せん》の人もこの花が好きだと申して、山から取って来ては、この通り庭いっぱいに植えたのでございます」
「御身の先《せん》の良人《つれあい》という人は、なかなか風流人であったと見える。武術の心がけもあったようであるし、文字の嗜《たしな》みもあったというのに、その上こうして庭に花を植えて楽しむというのは、こんな山家住《やまがずま》いには珍らしい人であったようじゃ」
「もとからこの山家の人ではございませんでした」
「どこから来た人?」
「上方の方から参りました、いいえ、縁もゆかりもない人で、ふとした縁から一緒になってしまったのでございます」
「甲州は四方《しほう》山の国、思いにつけぬ人が隠れているそうじゃ。そんなことはどうでもよいが、甲州といえば、わしが生国《しょうごく》はその隣り。ここへ来ると、わしもどうやら故郷へ来たような心持がして、この山一つ向うには、懐しい親子が待っているように思われてならぬわい」
「御尤《ごもっと》もでございます、なんとかして早くお帰し申すようにして上げたいと……でも当分は、おうちのつもりで御休息をなさいませ」
家の奥の方でこの時、書物を声高《こわだか》に読む子供の声がします。
「よく勉強していますな。あの子は性質《たち》のよい子じゃ、よく育ててもらいたいもの」
竜之助は、奥の間で本を読んでいる子供の声に耳を澄ましている様子です。
子供は三字経《さんじきょう》を読んでいるものらしい。
[#ここから1字下げ]
「養うて教へざるは父のあやまち
教へて厳ならざるは師のおこたり」
[#ここで字下げ終わり]
というような文句が断続《きれぎれ》に聞えます。
「今はもう、あの子の成人するばかりが楽しみでございます。他国《よそ》へ出る時はお隣りへ預けて参りますが、それでも感心に手習や学問に精を出してくれますから。なに、こんな山家で学問なんぞをと申しますけれど、死んだ良人《つれあい》が、この子はぜひ世間に出してやりたいと申しておりましたものですから」
母もやっぱり、わが子の読書の声を嬉しがって聞《き》き惚《ほ》れています。やがて読書の声が止んで、しばらくして裏口からハタハタと駆け出して来た子供。
「お母さん」
「蔵太郎《くらたろう》かえ」
「ああ」
月見草が咲いた中から、面《かお》を出した六歳ばかりの可愛らしい男の児。
「おじさんもいるの?」
「おじさんもここでお月見を……お前も来てあのお月様をごらん」
お徳はわが子を縁側の方へ麾《さしまね》く。
「月見草がよく咲いてるね」
と言って、子供はその花を一つ※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》る。
「あ、これ、その花を取ってはいけません、それはお前のお父さんが大好きな花なのだから大切にしなくては」
「でも、こんなにたくさん咲いているから一つぐらい」
「一つでもいけません、せっかく、月見草がお月見をしているものを、摘み取るのはかわいそうですよ」
「花が月見をする? それはおかしいね、母さん」
「ごらん、この月見草という花は、日が暮れるとこんなに咲いて、日にあたると凋《しぼ》んでしまうのだから。お月様の好きな花、そうしてお月様に好かれる花」
「坊は、こんな花よりも桜の花や、つつじの花が好きさ」
「お前のお父さんはまたこの花が好きであったのだから、お前も好きにおなり」
「それでは好きになろう、この花と一緒にお月見をしよう」
「それがよい。そんならおじさんの傍へ行って、縁側へ腰をかけてお月見をしながら、また戦人《いくさにん》の話を教えておもらいなさい」
「そうしよう。おじさん」
子供は勇んで竜之助の傍へ来る、竜之助は黙ってその頭を撫《な》でる。
「おじさん、お前は眼が見えないのだろう?」
「ああ、眼が見えない」
「それでお月見をするのはおかしいね」
「それでもその月見草でさえも、眼がなくてお月見をしているではないか」
「そうだな、眼がなくても月が見えるだろうか知ら」
「それは見える」
「では、この月見草の花は、どんな色をしているか当ててごらん」
「黄色い色をしている」
「よくわかるね。それではおじさん、坊がここへ字を書くから、その字を読んでごらん」
子供は棒切れを取って竜之助の足許《あしもと》の地面へ大きく文字を書いて、
「さあ、何という字を書いた」
「それは読めない」
「それごらん」
「どうにも、おじさんにはそんなむずかしい字は読めぬ」
「教えて上げようか」
「教えてくれ」
「いや」
「教えてくれ」
「いや」
「その字が知りたい」
「教えればおじさん、戦人《いくさにん》の話をしてくれる?」
「焦《じ》らすものではない、早く教えてくれ」
「蔵太郎や、おじさんを焦らさないで早く教えてお上げ」
「それでは教えて上げよう、いま書いたのは月という字」
「ああ、月という字――そう言おうと思っていたところ」
「聞いてから言っても駄目。それではおじさん、戦人のお話をしておくれ」
「おじさんに戦人の話をしてもらうより、お母さんに歌を聞かしておもらい」
「お母さんに歌を?」
「お前のお母さんは歌が上手であった。話は家の中でするもの、歌はこういうところでうたうのがよい」
「それではお母さん、歌をうたって聞かせておくれ」
「母さんに歌などがうたえますことか。それはおじさんが嘘《うそ》をおっしゃるのですよ」
「嘘ではない。峠から下りて来る時、山駕籠の中でうつつに聞いていたがよい声であった。あれをひとつ、この月の晩にここで聞かしてもらいたい」
「まあお恥かしいこと、あんなのは歌でもなんでもありゃしません、魔除《まよけ》にああして声を出し歩くだけのことで」
「そうではない、土地の歌は土地の人の口から聞かねば情合《じょうあい》がない、あの、甲州出がけのという歌、あれを駕籠の中で聞いて
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