ある。
「案《あん》の定《じょう》、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了《おお》せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交《かわ》る交る舁《かつ》いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」

         三

 東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵《いわぶち》から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島《とおじま》、左が万沢《まんざわ》で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりま
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