ようにして、耳を澄まして寝息を窺ったが、紙張の中に人ありやなしや。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼は闇の中でもよく物が見えます。それはがんりき[#「がんりき」に傍点]に限ったことはない、盗みをなす人は大抵は皆そうであるはずです。
畳の上に吸いついて紙張の中を見ていることやや暫く、どうしてもがんりき[#「がんりき」に傍点]に判断がつかぬ、合点《がてん》がゆかぬ。
彼も七兵衛との話の模様では、一ぱしの盗人であろうけれど、紙張の中が何者であるか、起きているか醒めているかさえ、どうしても合点がゆかない。それを知るべく小半時《こはんとき》を費《ついや》してしまったのですがついに解決がつかないで、そのまま蟻《あり》の這うように井桁《いげた》の葛籠《つづら》の方へ寄って、やっと片手をその葛籠へかけました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は腹這《はらば》いながら、左の片手を井桁の葛籠の一端へかけたが、かけたなりで、また暫くじっとして紙張の中の動静を窺《うかが》う。
紙張の中は、やはり静かであって、ウンともスウとも言わぬ。
それからまた身体《からだ》をずっと乗り出して、葛籠の紐《ひも》へ手をかける。蟻が芋虫《いもむし》をひきずるように、二寸ばかりこっちへ引き出しました。
「占めた」
紙張の中には誰もいないのだ、いるにしても死んでいるか眠っている。がんりき[#「がんりき」に傍点]は、モウ占めたとばかり、ずいと葛籠を引き寄せること一尺。この時、紙張の裾が、扱《しご》いたようにグッと鳴る。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、ついと飛び退《の》いた。一尺余りの白刃が、紙張の裾から飛び出して、がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼と鼻の上を筋違《すじか》いに走って、そうしてその切尖《きっさき》はガッシと葛籠の一端に当る。
ついと飛び退いたがんりき[#「がんりき」に傍点]。その時は、もう白刃は紙張の裾に隠れてしまって、紙張の中は前と同じように音もなければ声もない。
二尺ばかり飛び退いたがんりき[#「がんりき」に傍点]はそこで脇差の柄《つか》に手をかけて、いま白刃の飛び出した紙張の裾と、葛籠の間を見ていること半時ばかり。いつまで見ていても紙張のうちは前と少しも変らない。がんりき[#「がんりき」に傍点]の方もまた、最初から終《しま》いまで一言《ひとこと》も立てないのであります。
紙張と葛籠を相手に妙な暗闘、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]の精根《せいこん》が尽きたと見えて、ジリジリと退却、紙張と葛籠を睨めながら、脇差に手をかけたなりで、あとじさりに敷居を越えて、ついに部屋の外へ出てしまいました。それでも感心に障子は元通りに締めておいて、
「降参、降参」
「どうした」
狸寝入《たぬきねい》りをして待っていた七兵衛の枕許へ来たがんりき[#「がんりき」に傍点]、そこで兜《かぶと》を脱ぐ。
「とても俺の手には合わぬ、兄貴いくなら行ってみろ」
「弱い音《ね》を吹くじゃねえか」
七兵衛は起き上る。七兵衛も寝ながら後詰《ごづめ》の身ごしらえしていたが、がんりき[#「がんりき」に傍点]からいま忍び込んだ様子の首尾を逐一《ちくいち》きいて、
「なるほど、そりゃいけねえ、こっちよりたしかに一枚上だ、せっかくだが、俺もやめる」
七兵衛は身仕度を解《ほぐ》しはじめる。
「チェッ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は舌を鳴らして、
「このままで引込むのも業腹《ごうはら》だ、明日になったらひとつ正体を見届けての上で、物にしなくちゃならねえ」
「天竜寺の方は、どうする」
「そりゃ後廻し」
二人はこうして寝込んでしまう。今度はほんとうによく眠りつづけて、翌朝、ほかの客よりもおそくまで眼が覚めませんでした。
その翌朝、大米屋の前へ二挺の駕籠《かご》が止まると、主人や番頭が飛んで出て頭を下げました。
ほどなく二階の二番の部屋から女中に手を引かれて静かに出て来た人、がんりき[#「がんりき」に傍点]と七兵衛が多年の老巧を以てしてついに何者であったか見抜けなかった人。
女中に手を引かれて歩いて来ても、やっぱり何人であるかはわからない。それは黒の井桁《いげた》の紋付の羽織と着物を重ねていたが、面《かお》と頭は黒縮緬《くろちりめん》の頭巾《ずきん》で隠していたから。
女中に手を引かれたのは眼が不自由なためらしい。そうして、脇差を差して刀を提げて、悠々と店先まで出て来ると、駕籠の垂《たれ》が上ってその中から姿を見せたのはお絹。
駕籠につづいて馬が来る、その馬には明荷《あけに》が二つ、いずれも井桁の紋がついている。そうすると、二階から下ろされたのは、ゆうべ問題になった朱漆の井桁の葛籠《つづら》。
二つの駕籠が勢いよく乗り出すと、つづいて葛籠を載せた馬の鈴の音。
「見たかい」
「見た」
「あやつは盲目《めくら》だぜ」
「盲目だ」
「後ろの駕籠を見たかい、後ろのを、あの女を」
「その女が、俺の知っている女だから不思議だ」
七兵衛はこう言う。
「兄貴、あの切髪の女をお前が知っているのかい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が不審がる。
「知っている、たしかに知っている、言葉をかけようと思ったが、かけちゃあ悪かろうと思ってかけなかった」
「そりゃ乙《おつ》だ。してみりゃあ、前の駕籠へ乗った奴の当りもついたろうな」
「そりゃ、やっぱりわからねえが」
「なんしろ近ごろ好い鳥がかかった、おおかた今夜は掛川泊りだろう。兄貴、仕度は出来たかい」
二人は、もうすっかり旅の用意が出来た上に朝食まで済んでいるのでした。
四
それと同じ日の夕方のこと。
どこから来たか西の方から来て、浜松の町を歩んで行く一人の子供がありました。
「かわいそうに、あの子供は跛足《びっこ》だね」
それは撞木杖《しゅもくづえ》を左の脇の下にあてがって、頭には竹笠《たけがさ》を被《かぶ》って、身には盲目縞《めくらじま》の筒袖《つつそで》の袷《あわせ》一枚ひっかけたきりで、風呂敷包を一つ首ねっこに結《ゆわ》いつけて、それで長の道中をして来た一人旅の子供と見えるから、それで町のおかみさんたちも、おのずから同情の眼を以て見るようになったものと見えます。
しかし悪太郎どもは悪太郎どもで、
「やい、跛足《びっこ》が来た、あれ見ろ、跛足のチビが来やがった」
古草鞋《ふるわらじ》を投げたり、石を抛《ほう》ったりして、
「こっちを向いて睨みやがった、おい、あの面《つら》を見ろ、ありゃ子供じゃねえんだぜ」
なるほど、悪戯《いたずら》をしかけた悪太郎どもの方を睨みつけた旅の子供の面《かお》を見れば、決して子供ではありませんでした。
「かわいそうに、あの子供は跛足だね」とせっかく同情を寄せた町のおかみさんたちまでが、笠の下からその面を見た時には呆《あき》れてしまって、
「おやおや、あれは子供じゃなかったんですね」
と言いました。
笠を被[#「被」は底本では「破」]ったなりで見れば子供に違いないけれど、笠の下からその面を見れば、子供ではないのです。
「なんだか河童《かっぱ》みたような、気味の悪い」
これは子供でもなし、また河童でもなし、宇治山田の米友《よねとも》でありました。
通るところの人々から同情されたり侮蔑《ぶべつ》されたりしながら、米友は伊勢の国から、ともかくもここまで、その一本足で歩いて来たものであります。一本の足が折れて使えなくなったけれども、米友の敏捷《びんしょう》な性質は変ることはなく、かえって他の一本の足の精力が、他の一本へ集まって来たかと思われるほどで、撞木杖《しゅもくづえ》を上手に使ってピョンピョン飛んで歩くと、普通の人の足並には負けないくらいの早さで歩いて行かれるようであります。
「帯屋七郎左衛門、なんだか御大層《ごたいそう》な家だ、俺《おい》らの泊る家じゃねえや」
米友は今夜泊るべき宿屋を探しているものと見えます。
「鍋屋三郎兵衛、こいつも俺《おい》らの歯には合わねえ」
大きな宿屋の看板を見てはいちいち排斥して歩いて行く。
「大米屋一郎右衛門」
これはがんりき[#「がんりき」に傍点]や七兵衛が、駕籠と馬のあとを追うて今朝出て行った宿屋。
「これもいけねえ」
米友は身分相応な木賃宿《きちんやど》かなにかを求めているのだが、それに合格するのがついに見出せないで、浜松の城下をほとんど通りつくしてしまいました。
広いようで狭い浜松の町はここで尽きて、米友の身は馬込川《まごめがわ》の板橋の上に立っていました。振返ると、浜名の方に落ちた夕陽《ゆうひ》が赤々として、お城の方の森蔭にうつっています。
「ああ、今夜も野宿《のじゅく》かな。これからまもなく天竜川の渡し、そこへ行くまでの間で、社《やしろ》かお寺の庇《ひさし》の下をお借り申さなくちゃあならねえ。それとも夜通し突っ走って、行けるところまで行こうかしら」
米友は思案しながら松並木を歩き出して、天神町の立場《たてば》から畷道《なわてみち》を、宿になりそうなところもがなと見廻しながら行くと、ほどなくやぐら[#「やぐら」に傍点]新田というところあたりへ来てしまいました。
「何だい、あそこで大へんな燈火《あかり》がする、御縁日《ごえんにち》でもあるのかな」
東へ向って左手の方、五六町も離れて少し小高くなったところに、大きな屋根が見えてあって、その周囲に町が立っています。
「行ってみよう」
米友はそこへ杖を枉《ま》げて、
「なるほど、大きなお寺だ。御縁日なんだな。よしよし、このお寺の裏の方にどこか寝るところがあるだろう」
表の方は人が雑沓《ざっとう》しているけれども裏の方は誰もいない。表の方は昼のような明るさであったが、裏の方は真闇《まっくら》。
米友は裏から廻ってこっそりと本堂の縁の下へもぐり込んでしまいました。蜘蛛《くも》の巣を分けながらちょうど須弥壇《しゅみだん》の下あたりのところへ来て見ると、いいあんばいに囲いになって身を置くようなところが出来ていましたから、そこへ荷物を卸《おろ》して、
「やれ安心、これでようやく今日の旅籠《はたご》がきまった」
米友はそこに納まったが、頭の上は本堂の広間、いっぱいに人で埋まっているような様子。階段から庭、庭から海道筋の方へかけては、人の足音がしきりなく聞える。
本堂の中にはいっぱいの人が集まっているようだけれども、そのわりあいに静かであります。そうして時々、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏という声が海嘯《つなみ》のように縁の下まで響いて来ます。
このお寺は、がんりき[#「がんりき」に傍点]や七兵衛がめざして来た天竜寺でありました。いま本尊の側《わき》の高いところで説教をしている六十ばかりの、至極|痩《や》せた老体がすなわち遊行上人《ゆぎょうしょうにん》なのでありました。
鼠色の、ずいぶん雨風を浴びた袈裟衣《けさごろも》をかけて、帽子を被り珠数《じゅず》を手首にかけながら、少しく前こごみになって、あまり高い音声ではないが、よく透《とお》る声で、
「さいぜんも申す通り、我等が境界《きょうがい》は跣足乞食《はだしこじき》と同じ身分じゃ。それにまたこんなに紫の幕を張って、御朱印つきで旅をするというのは我等の心ではない、お役人がそうしてくれるから、そうしている分のことよ。決して我々を、上人だの名僧だのといって有難がってはいけぬ。こうして旅をして歩いて、どこでバッタリと倒れて死ぬかわからぬ身じゃ、なんの我等に貴いところがありましょうぞ、ただただ念仏往生の道を守るのみじゃ。さあさあ、お望みとあらばこれから名号《みょうごう》を授けて上げる。それじゃというて、これだけの人数が一度に押しかけられたのではわしがたまらぬ、そこへ木戸を拵《こしら》えておいたから、先に来たものから争わずに、こちらへ一人ずつ入って来なさるがよい」
遊行上人はこういって、座右《ざう》の箱に入れてあった名号の小札を一掴《ひとつか》み無造作《むぞうさ》に取っておしいただ
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