に、また一人の旅人がその轡面《くつわづら》を取って駆けて来るのです。轡面を取っている男は、逸《はや》る馬を引き止めるつもりではなく、それと一緒に走るつもりのように見えました。それはなんとなく穏かでない光景ですからお君は、ムクと一緒に道傍に立って馬の過ぐるのを避けました。それを避けながら、なんの気なしに馬の上を見るとその乗った人。
「あれ、あのお方は」
お君は眼の前を過ぎて行く馬を見送って、その乗っている人の後ろ姿を伸び上って見ました。黒い着物に黒い頭巾《ずきん》を被っていて、面《かお》の全部を認めるわけにはゆきませんでしたが、それでも通り過ぐる途端《とたん》の印象で思い起したのは、伊勢の大湊の船大工与兵衛の宅で会った盲目《めくら》の武士、幽霊のような冷たい人。
お君はこう思って馬上の人を見送っておりましたが、あの晩のことを考えると、今でもぞっと水をかけられるようで。今も眼の前を通ったのが、どうもこの世の人ではなくて、やっぱり幽霊が飛んで行ったように思われてなりません。
この時にムク犬は何を見たかキリリと尾を捲《ま》き上げて、三保の松原の方を向いて前足を揃えました。
「どうしたの、
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