お君は暫らく西の空を拝んでいましたが、またムクの頸を抱いて、一人で二人分の話をしていました。

 暫らくして、夕焼けも消えてしまい、夜の色が、波の音と一緒に深く押寄せて来るのに気がついたお君は、
「ああ、あんまり嬉しいので、日が暮れたのも忘れてしまった、これから出かけるといったって仕方がないから、今夜はここのお社《やしろ》へ泊めてもらいましょう。ムクや、よく神様にお礼を申し上げて、今夜はここへわたしと一緒に泊めてもらうんだよ」
 命を捨てるはずであった神前で、この不思議なる主従は、相抱いて一夜を明かすことになりました。

         七

 それからのち程経《ほどへ》て、東海道の駅々を、どこで手に入れたか一|挺《ちょう》の三味線を抱えて、東へ下るお君の姿を見ることになりました。そのあとには例のムク犬がついています。
 いつでも問題になるのはお君の容色《きりょう》。雲助、馬方、道中師《どうちゅうし》の連中、これらが遠くから見て悪口を言う分には差支えないけれども、もしいささかでも悪意を持って近寄ろうものならば、眠っていたようなムク犬の眼が鏡のように光ります。垂れていた全身の毛が逆さに
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