激しく動いて、地鳴りをするほどに、
「ワン!」
と一声。生命《いのち》を忘れたお君の身にも、どうして、この声は聞き忘れられない声でありました。
「ムクではないか」
 祠の扉を押し開いて飛んで出たお君。
「ムクだ、ムクだ、ムクに違いない」
 何もかも忘れて犬にかじりついてしまいました。
 ここに来たのはムクであります。机竜之助と共に、七里の渡しを渡って熱田から浜松のとっつきまでついて来たムク犬であります。浜松でムクを失った机竜之助は、そこでお絹という女を得て、同時にまた両眼の明《めい》を失いました。
 すでに命を失おうとしたお君は、ここでムクと命とを取り返してしまいました。
「ムクや、お前どうしてここへ来たのだい、どこに今まで何をしていたのだい、よくわたしがここにいることがわかりましたねえ」
 お君はムクの首を抱いてしまって、犬の顔と自分の面《かお》とをピッタリくっつけて嬉泣《うれしな》き、ムクは何も言わず、咽喉《のど》を鳴らし尾を振ってお君のする通りになっています。
「わたしは、お前が古市でお役人につかまって、あの時にもう殺されてしまったものとばかり思っていたのよ、よく逃げられたねえ。
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