悪者ではないが、亭主は酒が好きで、よく夫婦喧嘩をする。身体が癒ってみると、いつまでもこんなところに厄介になっていることは心苦しい上に、漁師夫婦は、若山丸の船頭からお君のためといって相当の手当を貰っているくせに、それは遣《つか》い果して今度は、お君の持っているいくらかの用意に眼をつけ出し、それにまた酒の上で、この亭主が年甲斐《としがい》もなくお君の仇《あだ》な姿を見て、へんなことを言い出し、それを山の神が疑ぐり出して、喧嘩が始まる、子供が泣き出す、近所隣りが仲裁に来るという騒ぎですから、お君はとうとう五日目に、居堪《いたたま》らなくなってここを逃げ出しました。
 お君の心では、お松に言われた通り駿河の国|清水《しみず》の港まで尋ねて行く覚悟でありました。
 家の者が寝静まった頃を見計らって、宵《よい》のうちから用意しておいた手荷物を取纏《とりまと》め、草履穿《ぞうりば》きでこの漁師の家の裏口から首尾よく忍び出てしまいました。
 家を駈け出すと浜辺の広い原、宵の明星《みょうじょう》が高く天神山というのから東へ外《はず》れて光っている。まばらに見える漁師の家の屋根、どこでもまだ竈《かまど》の
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