の前でスパスパとやられて一言《いちごん》もなく恐れ入っちまうなんぞは、人徳《にんとく》というものは大したものですな」
「心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣足乞食《はだしこじき》と同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公卿《くげ》さまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね」
「さあ参りましょう。私共なぞもお札がいただけるかいただけないか、とにかく正《しょう》のままをお目にかけてお願い致してみましょうでございます」
 隠居さんのようなのが一人立ちかけて、ふと懐中へ手を入れてみましたが、
「おや」
「どうかなさいましたか」
「たしかに持って参った懐中物が」
「お懐中物が? それはそれは」
「おやおや、私も大事な紙入が……」
「あなたも?」
「あれ、わたくしの簪《かんざし》がどこぞに落ちておりは致しませんでしょうか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の周囲《まわり》で、あちらにもこちらにも紛失物の声がありましたので、四辺
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