、まるで人間の言葉を聞き分け人間の心持までわかるようでございます」
「そうか」
「それですから、近所でもみんな可愛がりまして、御膳《ごぜん》の残りやお肴《さかな》の余りなどをこの犬にやっておりますし、犬もここを宿として居ついてますから、こうしておきますので、もし飼主でも出ましたら返してやりたいと思いますのでございますが」
「これこれ、お前の名はクロか、ムクか、こっちへ来い」
 竜之助は天蓋越《てんがいご》しに犬の姿をよく見ていると、犬もまた竜之助の方をじっと見ています。

 竜之助がこの店を立つと、犬がそれについて来ます。
 渡場《わたしば》まで来ても犬は去りません。竜之助もまた追おうともしません。竜之助が船に乗ると、犬もそれについて船に乗ろうとして船頭どもの怒りに触れました。
「こん畜生、あっちへ行け」
 棹《さお》を振り上げて追い払おうとしたが逃げません。
「乗せてやってくれ、船頭殿」
 竜之助はなぜかこの犬のためにとりなしてやりました。
「これはお前さんの犬でございますかい」
「そうだ」
 船頭が不承不承《ふしょうぶしょう》に棹を下ろすと、犬はヒラリと舟の中へ飛んで乗りました。

前へ 次へ
全117ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング