いるところでございます」
「急ぐ旅でもないが……」
「そうなさいまし……江戸から来てみると、どうも淋しいこと、御覧の通り。ここは浜松も城下を西北に外《はず》れておりまして、わけてこの近所はお寺が多いものですから、夜などは墓場の中にいるようなもので、自分ながら、たとえ三日でも、よくこんなところに辛抱ができるようになったかと感心しているのでございます、もう女も、こうして淋しいところが住みよくなるようでは廃《すた》りでございますね」
 吉田通れば二階から招く、しかも鹿《か》の子《こ》の振袖で……というのは小唄にあるが、これは鹿の子の振袖ではない、切髪の被布《ひふ》の、まだ残んの色あでやかな女に招かれたこと。
 竜之助は、不思議な女だとも思い、旅の一興とも思う。
 その夜はこの女と共にさまざまの物語をして後、十畳の一間へ床を展《の》べてもらって竜之助は寝る。
 その夜、どうしたものか竜之助の頭がクラクラとする。ガバと褥《しとね》を蹴《け》って起き上る。
 秋草を描いた襖《ふすま》が廻り舞台のように動き出す、襖の引手が口をあく、柱の釘隠《くぎかく》しが眼をむく。
 蒲団《ふとん》の上に坐り直した
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