激しく動いて、地鳴りをするほどに、
「ワン!」
と一声。生命《いのち》を忘れたお君の身にも、どうして、この声は聞き忘れられない声でありました。
「ムクではないか」
祠の扉を押し開いて飛んで出たお君。
「ムクだ、ムクだ、ムクに違いない」
何もかも忘れて犬にかじりついてしまいました。
ここに来たのはムクであります。机竜之助と共に、七里の渡しを渡って熱田から浜松のとっつきまでついて来たムク犬であります。浜松でムクを失った机竜之助は、そこでお絹という女を得て、同時にまた両眼の明《めい》を失いました。
すでに命を失おうとしたお君は、ここでムクと命とを取り返してしまいました。
「ムクや、お前どうしてここへ来たのだい、どこに今まで何をしていたのだい、よくわたしがここにいることがわかりましたねえ」
お君はムクの首を抱いてしまって、犬の顔と自分の面《かお》とをピッタリくっつけて嬉泣《うれしな》き、ムクは何も言わず、咽喉《のど》を鳴らし尾を振ってお君のする通りになっています。
「わたしは、お前が古市でお役人につかまって、あの時にもう殺されてしまったものとばかり思っていたのよ、よく逃げられたねえ。それでお前、わたしがこっちへ来たということがわかって、そうしてわたしの後を追って来たのだね、ほんとにお前は神様のような犬だよ。そうしてお前、あの米友さんはどうしたい、あの人の行方《ゆくえ》を知ってるでしょう、話してお聞かせ、いえ、連れてっておくれ」
ムクが犬でなかったら、この場合に語りつくせぬ物語があるのでしょうけれども、いかに聡明であっても人でない悲しさには、あれから後の話を一言《ひとこと》も語って聞かせることができません。
「お前が来てくれれば、もうわたしは死ななくてもよい、もう一足お前が遅かろうものなら、わたしは死んでしまっていたのだよ、きっとわたしのお母さんが、まだわたしを死なしたくないと思って、そうしてお前を助けによこしたんだね。お前は陸《おか》を来る、わたしは海を来て、この辺で下りようとは思わなかったのに、それをお前が尋ね当てて来るなんて、ほんとうに切っても切れない因縁《いんねん》があればこそでしょう、やっぱりお母さんのことを考えていたから、その引合せに違いない」
お君はやっとムクの頸《くび》から手を離して、そうして沈み行く夕陽の海の彼方を見て掌を合せて拝みました。
お君は暫らく西の空を拝んでいましたが、またムクの頸を抱いて、一人で二人分の話をしていました。
暫らくして、夕焼けも消えてしまい、夜の色が、波の音と一緒に深く押寄せて来るのに気がついたお君は、
「ああ、あんまり嬉しいので、日が暮れたのも忘れてしまった、これから出かけるといったって仕方がないから、今夜はここのお社《やしろ》へ泊めてもらいましょう。ムクや、よく神様にお礼を申し上げて、今夜はここへわたしと一緒に泊めてもらうんだよ」
命を捨てるはずであった神前で、この不思議なる主従は、相抱いて一夜を明かすことになりました。
七
それからのち程経《ほどへ》て、東海道の駅々を、どこで手に入れたか一|挺《ちょう》の三味線を抱えて、東へ下るお君の姿を見ることになりました。そのあとには例のムク犬がついています。
いつでも問題になるのはお君の容色《きりょう》。雲助、馬方、道中師《どうちゅうし》の連中、これらが遠くから見て悪口を言う分には差支えないけれども、もしいささかでも悪意を持って近寄ろうものならば、眠っていたようなムク犬の眼が鏡のように光ります。垂れていた全身の毛が逆さに立ちます。そうして猛然として唸《うな》りつけます。それですから、さすが荒っぽい者共がお君の傍へ近寄れませんでした。
朝顔日記もどきの風流な客人が、お君を招《よ》んで歌をうたわせる、お君は以前備前屋でしたように、席へは上らないで、庭でうたいます。
「どうかこの犬も一緒に入れて下さいまし」
お君が歌をうたう傍へ、ムク犬が来て跪《かしこ》まる。こんなわけで、誰人もついにお君に指一本加えることができない上に、相当の収入《みいり》があって、お君は旅に不自由することなくして東へ下って行くことができました。
日数《ひかず》いくつか重ねて駿府《すんぷ》の町へ入りました。お君は駿府の二丁目を流して歩くと案外にも多くの収入《みいり》がありましたから、これから二三日は稼《かせ》がなくてもよいと思いました。
「清水港というのへは、これから何里ございましょう」
駿府の町を出る時に、お君は人にたずねてみました。
「清水へ行かっしゃるなら、本道を行かずに久能山道《くのうざんみち》というのへおいでなさい、左様、久能山の下まで二里、それから清水港まで一里半もあるかね、通して三里にはきついと思えば間違いはありませ
前へ
次へ
全30ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング