》なくなるにつれて心細さが増してきました。
 ちょうどその時分、東がようやく白《しら》んで、いずこの里かで鶏の鳴くのが聞えました。空の明るくなることは、人の心をも明るい方へ持って行く、鶏の鳴く音は、人里懐しい響を伝えるので、お君も気が引立ちました。そうしていま眼の前へ出た広い道を取って一里ほど行って、とある百姓家の裏で水を汲んでいた百姓のおかみさんに、
「もしもし、あの、掛川へ行くには、この道を行ってよろしゅうございましょうか」
 お君がたずねると、水汲み女房は訝《いぶか》しそうな眼をして、
「掛川へおいでなさる? そりゃ違いますよ、掛川へ行くには、これから一里ほど戻って街道がありますから、それを真直ぐに行くのですよ」
 こう教えられてお君はガッカリしました。それでは最初きた道を真直ぐに行けばよいのであったものを。といって、これからまた一里の道を引返す勇気は更にありません。
「そうでございますか、どうも有難うございます、そうして、この道を行けばどこへ出るのでございましょう」
「この道を行けばお前さん、中泉《なかいずみ》の宿の方へ出てしまいますよ、掛川は東、中泉は西ですから、まるっきり方角が違いますね」
「そうですか、それでは」
 こうなるとお君の頭が混乱してしまって、無暗《むやみ》に向いた方の道へさっさと歩き出しました。
 東へ行くつもりで西へ来た、ここでお君は考えてしまいました。東の方はまだ知らない空、西の方が故郷に近い。東から遠ざけられて西へ行く自分は、やっぱりそちらの方に縁があるのではあるまいか。いっそそれでは東へ行くことをやめて、西へ帰ってしまおうかしら。
 一時のはかない心休めに、いっそ故郷へ帰ってしまおうかと思ってみたが、「自分の身はお尋ねになっている身であった」ということを考え出して、
「そうそう、わたしは盗人という濡衣《ぬれぎぬ》がまだ乾いていない身であった、古市《ふるいち》へ姿を見せれば、直ぐに縄目にかかる身であった、さあ故郷へは帰れない」
 今になって、そのことが急に思い出されてきました。
「米友さんはどうしたろう、ムクはどうしたろう、わたしは、やっぱり帰れやしない」
 お君は、そこでまた呆然《ぼうぜん》として立ち尽してしまいました。
 さまざまに思い乱れつつも、お君は西を指して歩きました。
 日がだんだんに昇る。日は昇っても人の通りは尠《すくな》い秋の野路、それを半日も歩いていると、饑《うえ》と疲《つか》れで足が動かない。何というところか、田舎の外《はず》れ、馬子《まご》などの休みそうな一ぜん飯屋の隅で辛《から》くも、朝餉《あさげ》と昼飯とを一度に済ませて、それから中泉と聞いて歩いて行きましたが、少したって中泉はと尋ねてみたら、また横道へ入ったと言われて、もう気を落してしまって、それからは足が動かず、ちょうど見つけたのが八幡《はちまん》の森。その森蔭で休もうとすると、小さいながら人一人を容《い》れて余りある祠《ほこら》。お君はその中へ入って、風呂敷包を抛《ほう》り出してほっと息をついたのでありました。

「お母さん、お母さん」
 お君は悲しさと懐しさで、母を慕うて声をあげた時に、仮寝《かりね》の夢が破れました。夢が破れて見ると、いつのまにか日は暮れかかって、祠の外から、西の海へ沈む夕焼けが赤々として本堂を洩れて、格子《こうし》の透間《すきま》からお君の面《おもて》にまで射し込んでいるので、夢よりはいっそう切《せつ》ないわが身に返りました。
 旅寝の疲れで夢を見て、母を恋い慕うて覚めて見れば、身はひとり寝の祠の中で、外は日暮れの物淋しい夕焼けの色です。
 眼が覚めてもお君は、もうここを立ち去る気にはなりませんでした。荒涼《こうりょう》たる心の中、さすらい尽した魂に射し込む夕焼けの色は、西の空に故郷《ふるさと》ありと思う身にとって、死んでその安楽の故郷に帰れと教えぬばかりの色でありました。
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鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
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 今まで無心で歌っていた歌。
「ああ、死んでしまおう」
 お君はここに初めて死の決心を起しました。
 死の決心がひとたび定まったために、生の重荷がことごとく振い落されてしまいました。
 お君は祠の隅を見廻して破れた太鼓に眼をつけて、それを梁《はり》の下まで転《ころ》がして来ました。
 その太鼓を、梁にかけた下締《したじめ》の下へ置いて、そうして身繕《みづくろ》いをして、その紐《ひも》へ両手をかけた時には、なにかしら涙が溢《あふ》れて来ました。
 その時ちょうど、祠の裏で颯《さっ》と藪《やぶ》をくぐるような物の音。
「あ、誰か来て見つけ出されては恥の上の恥」
 お君は結んだ紐を梁へかけ直して、太鼓の上へ身を載せると、前の扉がガタガタと
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