大菩薩峠
東海道の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)虚無僧《こむそう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|弾正《だんじょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]
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一
これらの連中がみんな東を指して去ってから後、十日ほどして、一人の虚無僧《こむそう》が大湊《おおみなと》を朝の早立ちにして、やがて東を指して歩いて行きます。これは机竜之助でありました。
竜之助の父|弾正《だんじょう》は尺八を好んで、病にかからぬ前は、自らもよく吹いたものです。子供の時分から、それを見習い聞き習った竜之助は、自分も尺八が吹けるのでありました。
眼の悪い旅には陸よりも船の方がよかろうと言ったのを聞かずに、やはりこれで東海道を下ると言い切って竜之助はこの旅に就きましたのです。
旅の仕度や路用――それは与兵衛の骨折りもあるが、お豊の実家亀山は相当の家であったから、事情を聞いてそれとなく万事の世話をしてくれたものであります。
尺八は持ったけれども別に門附《かどづ》けをして歩くのでもありませんでした。天蓋《てんがい》の中から足許《あしもと》にはよく気をつけて歩いて行くと、それでも三日目に桑名の宿《しゅく》へ着きました。ここから宮まで七里の渡し。
竜之助は、渡しにかかる前に食事をしておこうと思って、とある焼蛤《やきはまぐり》の店先に立寄りました。
名物の焼蛤で飯を食おうとして腰をかけたが、つい気がつかなかった、店の前に犬が一ぴき寝ていました。
大きなムク犬、痩せて眼が光る、蓆《むしろ》を敷いた上に行儀よく両足を揃えて、眼を据えて海の方を見ています。
「これは家の犬か」
「いいえ、まぐれ犬でござんす」
女中がいう。
「それを、お前のところで飼っておくのか」
「そういうわけでもございませんが、ここに居ついて動きませんので」
「そうか、これはなかなかよい犬じゃ、大事にしてやるがよい」
「ほんとによい犬でございます、見たところはずいぶん強そうでございますが、温和《おとな》しい犬で、それで怜悧《りこう》なこと、一度しかられたことは決して二度とは致しません、まるで人間の言葉を聞き分け人間の心持までわかるようでございます」
「そうか」
「それですから、近所でもみんな可愛がりまして、御膳《ごぜん》の残りやお肴《さかな》の余りなどをこの犬にやっておりますし、犬もここを宿として居ついてますから、こうしておきますので、もし飼主でも出ましたら返してやりたいと思いますのでございますが」
「これこれ、お前の名はクロか、ムクか、こっちへ来い」
竜之助は天蓋越《てんがいご》しに犬の姿をよく見ていると、犬もまた竜之助の方をじっと見ています。
竜之助がこの店を立つと、犬がそれについて来ます。
渡場《わたしば》まで来ても犬は去りません。竜之助もまた追おうともしません。竜之助が船に乗ると、犬もそれについて船に乗ろうとして船頭どもの怒りに触れました。
「こん畜生、あっちへ行け」
棹《さお》を振り上げて追い払おうとしたが逃げません。
「乗せてやってくれ、船頭殿」
竜之助はなぜかこの犬のためにとりなしてやりました。
「これはお前さんの犬でございますかい」
「そうだ」
船頭が不承不承《ふしょうぶしょう》に棹を下ろすと、犬はヒラリと舟の中へ飛んで乗りました。
桑名から宮まで七里の渡し。犬は竜之助の傍へつききりで、竜之助が舟から上ると犬もつづいて陸《おか》へ上る。
「これ犬」
高櫓《たかやぐら》の神燈《みあかし》の下で竜之助は、犬を呼んで物を言う。
「おれと一緒にどこまでも行くか」
犬が尾を振る。
「よし、おれの眼の見える間は跟《つ》いて来い、眼が悪くなった時は、先に立っておれの導きをしろ」
犬は竜之助の面《かお》を天蓋の下から覗《のぞ》き込んでいます。
「江戸へ八十六里二十丁、京へ三十六里半と書いてあるな」
太く書かれた道標《みちしるべ》の文字を読んで、
「鳴海《なるみ》へ二里半」
竜之助が歩き出すと、犬もやっぱり尾を振って跟《つ》いて来ます。
犬が竜之助を慕うのか、竜之助が犬を愛するのか、桑名の城下、他生《たしょう》の縁で犬と人とに好《よし》みが出来ました。この二つがどこまで行って、どこで別れることであるやら。
「桔梗屋《ききょうや》でございます、桔梗屋喜七は手前共でございます」
宿引《やどひき》の声。それには用がない。竜之助は神宮の方へは行かないで、浜の鳥居から右に寝覚《ねざめ》の里。
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花もうつろ
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