んよ」
 お君は、それを聞いて喜びました。もうたった三里行きさえすれば清水港、そこに姉妹《きょうだい》のようにしていたお松さんが待っている。

 ようやく清水港の近くへ来た時に、お君はその景色のめざましいことに驚かされてしまいました。
 右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方は薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》から甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣柱《ほばしら》の先から興津《おきつ》、蒲原《かんばら》、田子《たご》の浦々《うらうら》。その正面には富士山が雪の衣をかぶって立っています。
「まあ、なんという眺めのよいところでしょう」
 お君は立って風景に見とれていました。
 秋の日が右に落ちて、今で言えば四時頃の時でした。船をたずねて波止場《はとば》へ行く道を人に尋ねると、人はよく教えてくれましたから、お君は、その通りに行こうとする時分に、後ろから喧《けたた》ましい蹄《ひづめ》の音。振返って見ると、砂烟《すなけむり》を立てて一頭の駄馬が人を乗せて驀然《まっしぐら》に走って来ます。お君は驚いてその馬を道傍《みちばた》に避けると、馬は人を乗せた上に、また一人の旅人がその轡面《くつわづら》を取って駆けて来るのです。轡面を取っている男は、逸《はや》る馬を引き止めるつもりではなく、それと一緒に走るつもりのように見えました。それはなんとなく穏かでない光景ですからお君は、ムクと一緒に道傍に立って馬の過ぐるのを避けました。それを避けながら、なんの気なしに馬の上を見るとその乗った人。
「あれ、あのお方は」
 お君は眼の前を過ぎて行く馬を見送って、その乗っている人の後ろ姿を伸び上って見ました。黒い着物に黒い頭巾《ずきん》を被っていて、面《かお》の全部を認めるわけにはゆきませんでしたが、それでも通り過ぐる途端《とたん》の印象で思い起したのは、伊勢の大湊の船大工与兵衛の宅で会った盲目《めくら》の武士、幽霊のような冷たい人。
 お君はこう思って馬上の人を見送っておりましたが、あの晩のことを考えると、今でもぞっと水をかけられるようで。今も眼の前を通ったのが、どうもこの世の人ではなくて、やっぱり幽霊が飛んで行ったように思われてなりません。
 この時にムク犬は何を見たかキリリと尾を捲《ま》き上げて、三保の松原の方を向いて前足を揃えました。
「どうしたの、ムク」
 その時、また同じく三保の松原の方から風を切って飛んで来る旅人。その旅人を見ると、ムクが一声吠えて飛びかかります。
「これ、どうしたんだね、人様に飛びかかって」
 お君は身を以てムクの前に立ち塞がる。その隙《すき》を見て旅人は、燕のように急速力で駈け抜けてしまう。これはすなわち七兵衛。
 ムクの力として、お君の抑《おさ》えた手を振り切るのは雑作《ぞうさ》はあるまいが、それでも抑えられた手が主人の手と思ってか、身振《みぶる》いをしつつ七兵衛の駈けて行ったあとを睨んで立っていました。
「なんでお前は、そんなに見ず知らずの人を吠えるのです、今までそんなことはなかったじゃありませんか」
 ムクを促《うなが》して立とうとすると、
「三保の松原で大喧嘩《おおげんか》がある、早く行って見ろ」
 街道で物騒《ものさわ》がしい声。
 喧嘩喧嘩、という人波と一緒に、お君はムクに引かれて三保の松原へと来てしまいました。
「ムクや、危ないから、あまり近くへ行ってはいけないよ」
 そう言いながらも、お君は逸《はや》るムク犬に連れられて人混みの中へ行く。

         八

 ムクが逸るから、それに逐《お》われてお君も人混みの中へ潜《もぐ》り込んでしまいますと、
「おや」
 お君の驚いたのも道理、この人混みの中で槍を構えている人こそ、わが無二の友、宇治山田の米友でありました。もしやと思ったけれども、米友の面《かお》と姿ばかりは見違えようと思っても見違えるわけにゆきません。
「友さんではないか、友さん」
 お君は人を掻き分けて飛び出しました。ムク犬はそれより先に勢いよく米友の傍へ飛んで行きます。その人が米友であったればこそ、お君は白刃の中を頓着する余裕がありませんでした。武士でさえ立入り兼ねる白刃の中へ。
「米友さん、危ない!」
 米友は今、一人の若い武士を相手にして一心不乱に槍を構えているところでありました。その横合いから、お君は米友の身体に飛びついてしまいました。
「や、危ねえ」
 お君に飛びつかれた米友の驚いたおかしな顔。
「米友さん、何をするのだよ。危ないじゃないか、お侍と斬合いなんぞして、怪我《けが》でもしたらどうするんだい、早く謝罪《あやま》っておしまい」
「君ちゃん、どいていな、この侍は若いくせに悪い奴なんだから」
「いけない、お侍様に手向いなぞをしてはいけません」

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