めて出直しなさい、今日はお札は上げられぬ」
 その男は苦《にが》い面をして恐れ入りました。
「そらごらんなさい、あれは中の町で松屋といって、饑饉年《ききんどし》から太らせた米屋だ、心を改めて出直しなさいと言われっちまった、そうなくちゃあならねえ」
「えらいもんですな、上人様がなにもこの土地に居ついておいでなさるわけじゃなし、当人がそれを喋《しゃべ》るわけじゃなし、それでちゃあんと掌《てのひら》を指すように言い当てておしまいなさる、あれが仏眼《ぶつがん》というものでございますな。ああなると神通力《じんずうりき》を得ておいでなさるから、とても外面《うわべ》だけを飾って出たところで仕方がありませんな」
「そうですとも、ああいうところへは馬鹿は馬鹿なりに、悪人は悪人なりに、正《しょう》のまま持って行ってお目にかけるよりほかは仕方がござんせんな」
「どうです、おたがいがまあ、ああ言って人の前でスパスパすっぱぬきをやろうものなら忽《たちま》ち大事が持ち上ってしまいますな、白粉を薄くつけようと厚くつけようと大きなお世話だ、なんて啖呵《たんか》を切られた日には納まりがつきませんな。それをどうです、大勢の前でスパスパとやられて一言《いちごん》もなく恐れ入っちまうなんぞは、人徳《にんとく》というものは大したものですな」
「心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣足乞食《はだしこじき》と同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公卿《くげ》さまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね」
「さあ参りましょう。私共なぞもお札がいただけるかいただけないか、とにかく正《しょう》のままをお目にかけてお願い致してみましょうでございます」
 隠居さんのようなのが一人立ちかけて、ふと懐中へ手を入れてみましたが、
「おや」
「どうかなさいましたか」
「たしかに持って参った懐中物が」
「お懐中物が? それはそれは」
「おやおや、私も大事な紙入が……」
「あなたも?」
「あれ、わたくしの簪《かんざし》がどこぞに落ちておりは致しませんでしょうか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の周囲《まわり》で、あちらにもこちらにも紛失物の声がありましたので、四辺《あたり》がにわかに物騒《ぶっそう》になります。
 坐っていたものまでが総立ちで騒ぐと、事がいよいよ穏《おだや》かでなくなって、おたがいの眼つきになんとなく疑いの色がかかるから、皆々いやな気持がしてしまいました。
「御用心をなさいまし、よくない奴が入り込んでいるようですから」
「何です何です、泥棒ですか、早く掴《つかま》えておしまいなさい」
 それでいよいよ騒ぎが大きくなると遊行上人が、
「ああ、これこれ静かに。何かまたよくないことをするものがこの席へ入り込んだと見える、わしがよく見て上げるから静かになさい」
 この一言《ひとこと》で騒ぎが静まると、上人は一座をずうっと見廻したが、その眼ががんりき[#「がんりき」に傍点]の面の上へ来てハタと止りました。
 上人の眼は眼光|爛々《らんらん》というような眼ではありません。眉毛《まゆげ》の下から細く見えるくらいの眼でしたが、ずっと席を見廻すと、がんりき[#「がんりき」に傍点]のところへ来て上人の眼がハタと留まりましたものですから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまたギクッとしました。
 そこで上人はこう言いました、
「人の欲しいと思うものを取ったところで、それは己《おの》れの福分《ふくぶん》にはならぬものじゃぞ。金が欲しいならば、この集まりが済んでから、わしのところへ相談に来てみるがよい、多分のことはできまいが、いくらかの都合《つごう》はして上げる、人の物を盗むというのはよろしくない。さあ、この席のことはこの席限り、昔|犯《おか》した罪でも、神妙に懺悔《ざんげ》をすれば仏様が許して下さる。今日はこれおたがいが、後生往生《ごしょうおうじょう》のためというて集まったこの席で、人の物を盗ろうというものは、よくよくお気の毒な性《しょう》に生れついたものじゃ。盗った品はここへ出しておしまいなさい、今も申す通り、この席のことはこの席限り、盗られた人も許して下さるであろうし、盗った方もたちどころに罪が消えるのじゃ」
 こう言って、しーんとした席を見渡す、見渡すのではない、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人の面だけを、じっと見詰めておられるようにしか思われませんから、さしものがんりき[#「がんりき」に傍点]は、なんとなくまぶしくなって、面を上げていられないで俯向《うつむ》いてしまいました。
 上人からこう言われて、誰か名乗って出るだろ
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