くと、肩衣袴《かたぎぬばかま》を附けた世話人が、
「さあさあ、皆さんや、これから上人様がお手ずからお名号をお授け下さる、結縁《けちえん》のお方はこれより一人ずつお通り下さい、お受けになったお方は、あちらからもとのお席へお直りなさるように」
 静粛なもので、三尺ほどの入口から順々に上人の前へ出て名号をおしいただいて、一廻りしてもとの席へ戻って来るのに、みんな一応お先へお先へと言って辞儀《じぎ》をしました。
「さあさあ、お持ちなさい、お持ちなさい」
 上人の言葉つきからお授けぶりが、いかにも気軽であります。
 名号を受ける人は、老若貧富《ろうにゃくひんぷ》をおしなべて少ない数ではありませんでした。一生に一度こんな貴い上人のお手ずからの名号をいただく冥加《みょうが》の嬉しさ、これが罪障消滅《ざいしょうしょうめつ》、後生安楽《ごしょうあんらく》と随喜の涙にくれているものばかりであります。
「お前は少しお待ち」
 いま上人の前に出た五十ぐらいの頑丈《がんじょう》な男、その男には上人が容易《たやす》く名号を渡すことをしませんでした。
「お前は、もと船乗をしていたろうな」
「はい、左様でございます」
 頑丈な男は額へ手を当ててお辞儀をしました。集まった人は何事かと思いました。
「その船乗をしていた時に、難船に逢って死んだ者がある、その金をお前は取って遣《つか》ったろうな」
「へへへ、へえ」
 五十男はしどろもどろになりました。
「そうしてお前はまだついぞ、その人の菩提《ぼだい》をとむろうたことがない、その罪があるによって、お前にはこの名号を授けたところで往生は覚束《おぼつか》ない」
 一座はこの時に、しーんとしてしまいました。
 五十男は慙《は》じ入って下を向いてしまっているのを上人は、
「さだめて今お前の身には、骨節《ほねぶし》がところどころ痛むであろうな、終いには身体《からだ》が腐ってしまうぞ。それが怖ろしいからここへ来たものであろうが、まだまだ罪が消えてはいないによって、あちらへ行っているがよい」
 この時、当人のほかに一人、この席の一隅へ紛《まぎ》れ込んで様子を見ていた男が、きまり悪そうに肩をすぼめました。それはがんりき[#「がんりき」に傍点]でありました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、席の隅に小さくなっていたが、上人の船乗に言った言葉が、なんだか自分に当るように思われて肩をすぼめ、横を向いてしまいました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が胸を打たれた次に、
「お前さんには二枚上げる」
 上人は、その次に来た若い婦人には名号《みょうごう》の札を二枚やったのであります。
「有難うございます、有難うございます」
 女はおしいただいて次へ通って行く。がんりき[#「がんりき」に傍点]の傍で人の話、
「あれは身持ちなんだよ、あの女は身持ちのおかみさんだ、上人様にはどうしておわかりになるか、わたしどもが見たんでは、まだ様子ではわからないうちに、上人様はちゃんとお見分けなされて、身持ちの女には必ず二枚ずつをお授けなさる」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれと聞いて、いよいよ煙《けむ》そうな面《かお》。
 その次には、おそろしく衣裳《いしょう》を飾ってお化粧をした町家《ちょうか》の年増《としま》。
「おやおや、あれは浜松の酒屋のお妾さんだが、どうして信心ごころが起ったろう、大へんにめかし[#「めかし」に傍点]込んで来たが」
 その女が上人の前へ出ると上人が、
「ああ、お前の身には不浄《ふじょう》がある。それを洗って来なければお札は上げられない」
 女は真赤になって俯向《うつむ》いてしまいましたが、やがて何か気がついたらしく、
「ああ、どうも済みませんでございました」
 気軽に上人の前を辞して、暫くたって庫裡《くり》の方へ引返しながら、
「ほんとうにどうも、上人様の前へはうっかり出ることはできません。わたし今日、何の気なしにいつもの通り白粉《おしろい》を塗る時、鶏卵《たまご》の白味を使ったものですから、それで上人様が不浄があるとおっしゃいました。それ故、お湯に入ってこの通り素面《すがお》になって参りました」
 どこで湯に入って来たか白粉をすっかり洗い落して、再び上人様の前へ出ると、上人はなんとも言わずに札を授けてやりました。
 それから何人もずんずんと進行していきましたが、あとからあとからと詰めかける人で、いくら静かにしても自然、押合いの気味になります。上人は、また一人の男に向って、
「これこれお前は、どうも穀物渡世《こくもつとせい》をしているようだが、桝目《ますめ》を削《けず》って金銭を貪《むさぼ》るような様子が見える。その日その日の暮しを立てる食物の、量を削って己《おの》れを肥《こや》そうとするような者には往生はできぬ、心を改
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