山田の米友《よねとも》でありました。
 通るところの人々から同情されたり侮蔑《ぶべつ》されたりしながら、米友は伊勢の国から、ともかくもここまで、その一本足で歩いて来たものであります。一本の足が折れて使えなくなったけれども、米友の敏捷《びんしょう》な性質は変ることはなく、かえって他の一本の足の精力が、他の一本へ集まって来たかと思われるほどで、撞木杖《しゅもくづえ》を上手に使ってピョンピョン飛んで歩くと、普通の人の足並には負けないくらいの早さで歩いて行かれるようであります。
「帯屋七郎左衛門、なんだか御大層《ごたいそう》な家だ、俺《おい》らの泊る家じゃねえや」
 米友は今夜泊るべき宿屋を探しているものと見えます。
「鍋屋三郎兵衛、こいつも俺《おい》らの歯には合わねえ」
 大きな宿屋の看板を見てはいちいち排斥して歩いて行く。
「大米屋一郎右衛門」
 これはがんりき[#「がんりき」に傍点]や七兵衛が、駕籠と馬のあとを追うて今朝出て行った宿屋。
「これもいけねえ」
 米友は身分相応な木賃宿《きちんやど》かなにかを求めているのだが、それに合格するのがついに見出せないで、浜松の城下をほとんど通りつくしてしまいました。
 広いようで狭い浜松の町はここで尽きて、米友の身は馬込川《まごめがわ》の板橋の上に立っていました。振返ると、浜名の方に落ちた夕陽《ゆうひ》が赤々として、お城の方の森蔭にうつっています。
「ああ、今夜も野宿《のじゅく》かな。これからまもなく天竜川の渡し、そこへ行くまでの間で、社《やしろ》かお寺の庇《ひさし》の下をお借り申さなくちゃあならねえ。それとも夜通し突っ走って、行けるところまで行こうかしら」
 米友は思案しながら松並木を歩き出して、天神町の立場《たてば》から畷道《なわてみち》を、宿になりそうなところもがなと見廻しながら行くと、ほどなくやぐら[#「やぐら」に傍点]新田というところあたりへ来てしまいました。
「何だい、あそこで大へんな燈火《あかり》がする、御縁日《ごえんにち》でもあるのかな」
 東へ向って左手の方、五六町も離れて少し小高くなったところに、大きな屋根が見えてあって、その周囲に町が立っています。
「行ってみよう」
 米友はそこへ杖を枉《ま》げて、
「なるほど、大きなお寺だ。御縁日なんだな。よしよし、このお寺の裏の方にどこか寝るところがあるだろう」
 表の方は人が雑沓《ざっとう》しているけれども裏の方は誰もいない。表の方は昼のような明るさであったが、裏の方は真闇《まっくら》。
 米友は裏から廻ってこっそりと本堂の縁の下へもぐり込んでしまいました。蜘蛛《くも》の巣を分けながらちょうど須弥壇《しゅみだん》の下あたりのところへ来て見ると、いいあんばいに囲いになって身を置くようなところが出来ていましたから、そこへ荷物を卸《おろ》して、
「やれ安心、これでようやく今日の旅籠《はたご》がきまった」
 米友はそこに納まったが、頭の上は本堂の広間、いっぱいに人で埋まっているような様子。階段から庭、庭から海道筋の方へかけては、人の足音がしきりなく聞える。
 本堂の中にはいっぱいの人が集まっているようだけれども、そのわりあいに静かであります。そうして時々、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏という声が海嘯《つなみ》のように縁の下まで響いて来ます。

 このお寺は、がんりき[#「がんりき」に傍点]や七兵衛がめざして来た天竜寺でありました。いま本尊の側《わき》の高いところで説教をしている六十ばかりの、至極|痩《や》せた老体がすなわち遊行上人《ゆぎょうしょうにん》なのでありました。
 鼠色の、ずいぶん雨風を浴びた袈裟衣《けさごろも》をかけて、帽子を被り珠数《じゅず》を手首にかけながら、少しく前こごみになって、あまり高い音声ではないが、よく透《とお》る声で、
「さいぜんも申す通り、我等が境界《きょうがい》は跣足乞食《はだしこじき》と同じ身分じゃ。それにまたこんなに紫の幕を張って、御朱印つきで旅をするというのは我等の心ではない、お役人がそうしてくれるから、そうしている分のことよ。決して我々を、上人だの名僧だのといって有難がってはいけぬ。こうして旅をして歩いて、どこでバッタリと倒れて死ぬかわからぬ身じゃ、なんの我等に貴いところがありましょうぞ、ただただ念仏往生の道を守るのみじゃ。さあさあ、お望みとあらばこれから名号《みょうごう》を授けて上げる。それじゃというて、これだけの人数が一度に押しかけられたのではわしがたまらぬ、そこへ木戸を拵《こしら》えておいたから、先に来たものから争わずに、こちらへ一人ずつ入って来なさるがよい」
 遊行上人はこういって、座右《ざう》の箱に入れてあった名号の小札を一掴《ひとつか》み無造作《むぞうさ》に取っておしいただ
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