ます。
紙張と葛籠を相手に妙な暗闘、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]の精根《せいこん》が尽きたと見えて、ジリジリと退却、紙張と葛籠を睨めながら、脇差に手をかけたなりで、あとじさりに敷居を越えて、ついに部屋の外へ出てしまいました。それでも感心に障子は元通りに締めておいて、
「降参、降参」
「どうした」
狸寝入《たぬきねい》りをして待っていた七兵衛の枕許へ来たがんりき[#「がんりき」に傍点]、そこで兜《かぶと》を脱ぐ。
「とても俺の手には合わぬ、兄貴いくなら行ってみろ」
「弱い音《ね》を吹くじゃねえか」
七兵衛は起き上る。七兵衛も寝ながら後詰《ごづめ》の身ごしらえしていたが、がんりき[#「がんりき」に傍点]からいま忍び込んだ様子の首尾を逐一《ちくいち》きいて、
「なるほど、そりゃいけねえ、こっちよりたしかに一枚上だ、せっかくだが、俺もやめる」
七兵衛は身仕度を解《ほぐ》しはじめる。
「チェッ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は舌を鳴らして、
「このままで引込むのも業腹《ごうはら》だ、明日になったらひとつ正体を見届けての上で、物にしなくちゃならねえ」
「天竜寺の方は、どうする」
「そりゃ後廻し」
二人はこうして寝込んでしまう。今度はほんとうによく眠りつづけて、翌朝、ほかの客よりもおそくまで眼が覚めませんでした。
その翌朝、大米屋の前へ二挺の駕籠《かご》が止まると、主人や番頭が飛んで出て頭を下げました。
ほどなく二階の二番の部屋から女中に手を引かれて静かに出て来た人、がんりき[#「がんりき」に傍点]と七兵衛が多年の老巧を以てしてついに何者であったか見抜けなかった人。
女中に手を引かれて歩いて来ても、やっぱり何人であるかはわからない。それは黒の井桁《いげた》の紋付の羽織と着物を重ねていたが、面《かお》と頭は黒縮緬《くろちりめん》の頭巾《ずきん》で隠していたから。
女中に手を引かれたのは眼が不自由なためらしい。そうして、脇差を差して刀を提げて、悠々と店先まで出て来ると、駕籠の垂《たれ》が上ってその中から姿を見せたのはお絹。
駕籠につづいて馬が来る、その馬には明荷《あけに》が二つ、いずれも井桁の紋がついている。そうすると、二階から下ろされたのは、ゆうべ問題になった朱漆の井桁の葛籠《つづら》。
二つの駕籠が勢いよく乗り出すと、つづいて葛籠を載せた馬の鈴の音。
「見たかい」
「見た」
「あやつは盲目《めくら》だぜ」
「盲目だ」
「後ろの駕籠を見たかい、後ろのを、あの女を」
「その女が、俺の知っている女だから不思議だ」
七兵衛はこう言う。
「兄貴、あの切髪の女をお前が知っているのかい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が不審がる。
「知っている、たしかに知っている、言葉をかけようと思ったが、かけちゃあ悪かろうと思ってかけなかった」
「そりゃ乙《おつ》だ。してみりゃあ、前の駕籠へ乗った奴の当りもついたろうな」
「そりゃ、やっぱりわからねえが」
「なんしろ近ごろ好い鳥がかかった、おおかた今夜は掛川泊りだろう。兄貴、仕度は出来たかい」
二人は、もうすっかり旅の用意が出来た上に朝食まで済んでいるのでした。
四
それと同じ日の夕方のこと。
どこから来たか西の方から来て、浜松の町を歩んで行く一人の子供がありました。
「かわいそうに、あの子供は跛足《びっこ》だね」
それは撞木杖《しゅもくづえ》を左の脇の下にあてがって、頭には竹笠《たけがさ》を被《かぶ》って、身には盲目縞《めくらじま》の筒袖《つつそで》の袷《あわせ》一枚ひっかけたきりで、風呂敷包を一つ首ねっこに結《ゆわ》いつけて、それで長の道中をして来た一人旅の子供と見えるから、それで町のおかみさんたちも、おのずから同情の眼を以て見るようになったものと見えます。
しかし悪太郎どもは悪太郎どもで、
「やい、跛足《びっこ》が来た、あれ見ろ、跛足のチビが来やがった」
古草鞋《ふるわらじ》を投げたり、石を抛《ほう》ったりして、
「こっちを向いて睨みやがった、おい、あの面《つら》を見ろ、ありゃ子供じゃねえんだぜ」
なるほど、悪戯《いたずら》をしかけた悪太郎どもの方を睨みつけた旅の子供の面《かお》を見れば、決して子供ではありませんでした。
「かわいそうに、あの子供は跛足だね」とせっかく同情を寄せた町のおかみさんたちまでが、笠の下からその面を見た時には呆《あき》れてしまって、
「おやおや、あれは子供じゃなかったんですね」
と言いました。
笠を被[#「被」は底本では「破」]ったなりで見れば子供に違いないけれど、笠の下からその面を見れば、子供ではないのです。
「なんだか河童《かっぱ》みたような、気味の悪い」
これは子供でもなし、また河童でもなし、宇治
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