た》の紋をつけた葛籠《つづら》が一つ、その向うに行燈《あんどん》が置いてある。
やがてまたもとの部屋へ立戻ったがんりき[#「がんりき」に傍点]。七兵衛が待っている。
「どうだ、当りがついたか」
「駄目だ、やっぱりわからねえ、紙張の中に人がいるのかいねえのか、その見当もむずかしい」
「そりゃいる、人はいるにはいるがな」
「さあ、その人が男か女か、若い奴かまた老人か、それがわかるか」
「そりゃ男だ」
「男なら幾歳《いくつ》ぐらいで、侍か町人か、または百姓か職人か」
「そりゃ侍よ」
「はてな、それではあの葛籠《つづら》を何と了簡《りょうけん》した、井桁の朱漆の葛籠よ」
「あの中か、ありゃあ女物よ、あの中には女物が入っている」
「えらい! よく届いた。葛籠の中には女物で金目《かねめ》の物が入ってる、そうしてみると、いよいよわからなくなる」
「それを今、俺も考えているところだ、紙張の中に武士がいて、紙張の外には女物の葛籠ということになると、この判じ物がむずかしい」
「第一、わざわざ紙張を吊らせて寝るということからがおかしいけれど、あの寝様《ねざま》を見るがいい、ああして壁へも障子へも寄らず真中へ寝たところが心得のある証拠だ、ただものでは無《ね》え」
「どうだ一番、あの紙張の中と、葛籠の中、鬼が出るか蛇《じゃ》が出るか、俺とお前の初《はつ》のお目見得《めみえ》にはいい腕比べだ、天竜寺の前芸《まえげい》にひとつこなしてみようじゃねえか」
「そいつもよかろう」
「それでは籤《くじ》だ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は早速、紙で籤をこしらえる。七兵衛が短いのを引いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が長いのを引く。それでがんりき[#「がんりき」に傍点]がニッと笑って、
「兄貴、それじゃお先へ御免を蒙《こうむ》るよ」
「しっかりやってくれ」
「まだ早いな」
また一口飲んで、蒲団《ふとん》を敷いてもらって、二人は寝込んで夜の更《ふ》けるのを待っています。
がんりき[#「がんりき」に傍点]が夜更けて再び忍んで行った時に、かの部屋の燈火《あかり》は消えていました。障子の外で暫らく動静《ようす》を窺《うかが》っていたがんりき[#「がんりき」に傍点]。暫らくすると音もなく障子があいて、がんりき[#「がんりき」に傍点]は部屋の中へ入ってしまいます。
身を畳の上に平蜘蛛《ひらぐも》のようにして、耳を澄まして寝息を窺ったが、紙張の中に人ありやなしや。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼は闇の中でもよく物が見えます。それはがんりき[#「がんりき」に傍点]に限ったことはない、盗みをなす人は大抵は皆そうであるはずです。
畳の上に吸いついて紙張の中を見ていることやや暫く、どうしてもがんりき[#「がんりき」に傍点]に判断がつかぬ、合点《がてん》がゆかぬ。
彼も七兵衛との話の模様では、一ぱしの盗人であろうけれど、紙張の中が何者であるか、起きているか醒めているかさえ、どうしても合点がゆかない。それを知るべく小半時《こはんとき》を費《ついや》してしまったのですがついに解決がつかないで、そのまま蟻《あり》の這うように井桁《いげた》の葛籠《つづら》の方へ寄って、やっと片手をその葛籠へかけました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は腹這《はらば》いながら、左の片手を井桁の葛籠の一端へかけたが、かけたなりで、また暫くじっとして紙張の中の動静を窺《うかが》う。
紙張の中は、やはり静かであって、ウンともスウとも言わぬ。
それからまた身体《からだ》をずっと乗り出して、葛籠の紐《ひも》へ手をかける。蟻が芋虫《いもむし》をひきずるように、二寸ばかりこっちへ引き出しました。
「占めた」
紙張の中には誰もいないのだ、いるにしても死んでいるか眠っている。がんりき[#「がんりき」に傍点]は、モウ占めたとばかり、ずいと葛籠を引き寄せること一尺。この時、紙張の裾が、扱《しご》いたようにグッと鳴る。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、ついと飛び退《の》いた。一尺余りの白刃が、紙張の裾から飛び出して、がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼と鼻の上を筋違《すじか》いに走って、そうしてその切尖《きっさき》はガッシと葛籠の一端に当る。
ついと飛び退いたがんりき[#「がんりき」に傍点]。その時は、もう白刃は紙張の裾に隠れてしまって、紙張の中は前と同じように音もなければ声もない。
二尺ばかり飛び退いたがんりき[#「がんりき」に傍点]はそこで脇差の柄《つか》に手をかけて、いま白刃の飛び出した紙張の裾と、葛籠の間を見ていること半時ばかり。いつまで見ていても紙張のうちは前と少しも変らない。がんりき[#「がんりき」に傍点]の方もまた、最初から終《しま》いまで一言《ひとこと》も立てないのであり
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