からお座敷では武芸のお話で持ち切りのようでした、料理が運ばれたりお酒が運ばれたりして、大へん陽気になりましたが、それでもほかのお客の時よりは、静かな席でありました。それから、わたしが廊下を渡ってお池の傍を通りますと、お池の中の金魚が三つばかり死んでいて、緋鯉《ひごい》が一つ死にかけて腹を上にしておりました」
「…………」
「それも別に深く気にしたわけでもありませんが、あれ金魚が死んでいると、ちょうど通りかかりの女中に言いますと、女中たちは物見高《ものみだか》いから、忽《たちま》ち二三人集まって、金魚|評定《ひょうじょう》が始まりました、猫にひっかかれたんだろうというものや、いいえ烏が飛んで来ていたずらをしたのに違いないというもの、そうではない狆《ちん》がお池を掻《か》き廻したからだというもの、なかには、毒を飲まされたんだ、金魚が毒を飲まされたと言い出したものさえありましたが、それは笑い物にされてしまって、毒なんてそんなものがこのお邸のどこにあるの、お嗜《たしな》みなさいよと言われて、毒と言い出した女中は、面を真赤にして文句に詰ってしまいましたのを、後でわたしは思い出してゾッとしました」
「…………」
「そうしているうちに、そのお池ではいちばん大きな真鯉《まごい》、二尺もあろうというのが、眼の前で、ピンと水を切って飛び上りましたから、女中たちもみんな驚きました、わたしも驚きました」
「…………」
「鯉の跳《は》ねるのはなにも不思議はないが、常の跳ね様とは違って、一跳ね跳ねてから、それがクルクルと水の中を舞ってもがき苦しむのです、そりゃ見ていても凄《すご》いほどでございました。なんしろ鯉はほかの魚と違って、俎《まないた》の上へ載せられても、三十六|鱗《りん》ビクともせぬという、人間で言えば男の中の男、それが苦しがって器量いっぱいもがき苦しむのですから、そりゃ見ていても凄くなります」
 棚を走る鼠としては温和《おとな》しいと思うと、外ではこの時分から、時雨《しぐれ》が古寺の屋根を濡らしている。
 古寺の軒端《のきば》からも玉雫《たまだれ》が落ちて瓔珞《ようらく》の音をたてる。外はしめやかな時雨。柴の乾きがよいので、炉では焚火の色が珊瑚《さんご》を見るよう。お絹は飽かずに語りつづける。
「どうして、烏がいじめたり、狆《ちん》がちょっかいを出したりするくらいのことで、こんなことになるものですか、これは毒……恐ろしい毒と思っているうちに金魚がブクブクと死んで浮き出して来ます、その中を尾鰭《おひれ》を打ってその大鯉が苦しみもがいてもがいて、とうとうもがき死《じに》をしてしまいました。女中たちはみんな面《かお》を見合せて、人の色はありませんでしたが、わたしは今の真鯉の死態《しにざま》から、そのお邸の御主人が膳部の廻りを一人で見ていたこと、なんだかその奥に怖ろしいものがあるような気がしてたまりませんでした。そのうちに日が暮れました」
「…………」
「わたしが出て行く、その前を島田先生がブラリブラリと歩いていらっしゃる、ちょうどお月様が出ていました。先生を先に立てて行けば夜道をしても怖くないからと、ちょうど帰り道も同じ方へ行くのですからあとをお慕い申して行ったのですね。そうして行くと、その時わたしの後から来てすれ違って通り抜ける侍、見たような人でありました。ところは聖堂の森に近いお濠端《ほりばた》でございました。平素《ふだん》から淋しいところであるのに、この頃は物取りがあったり辻斬りがあったりして、宵のうちから人通りはないようなところなんですね、そこを島田先生が一人で、謡《うたい》をうたって、我なまじいに弓馬の家に生れ、世上に隠れなき身とて……中音《ちゅうおん》でうたっておいでなすったが、よく徹《とお》る声でした。わたしも前にあの先生がおいでなさると思うから、一人であんな淋しいところを湯島まで帰る気になったのでございます」
「後ろから来てすれ違ったというのはそりゃ何者」
「それが、頭巾を目深《まぶか》にかぶっていたものだから面《かお》はしかとわかりませんでしたけれど、小腋《こわき》に槍をこう抱《かか》えて、すうっと、わたしを抜いて行く後ろ姿に見覚えがある。名前は申し上げませんが大島流の槍の遣《つか》い手で、やはり旗本のうちの一人なんでございます。はて、あの人が槍を抱えて島田先生のあとを覘《ねら》って行くなと思うと、さきの毒一件から、またわたしの胸が噪《さわ》ぎ出しました」
「…………」
「それとは知らずに島田先生は、跡白河《あとしらかわ》を行く波の、いつ帰るべき旅ならん……ここまで来ると謡の節が立消えて、先生の足許《あしもと》が右の方へよろよろとしました。わたしがハッと思うと、先生のうんと唸《うな》る声、かっ[#「かっ」に傍点]と地面へ何かお吐き
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