ろ》を見ると、痛々しいほどに悄《しお》れている。いつも悄れているような人で、それで弱い人でもないのだが、今宵は一層悄れているように見える。それでお絹は力をつけてやる気になったのか、またはこの人に滅入《めい》られては、自分が淋しくてたまらないからであるか、つとめて元気らしくして話をしかけます。
「あの宇津木兵馬という人は、年は若いけれども、なかなか腕は出来る人ですね」
「ふむ」
 竜之助は軽い返事。
「あの人のお師匠さんが豪《えら》い人ですってね」
「それは豪い」
 竜之助の面が上る。
「御存じですか」
「知っている」
「島田虎之助という……」
「そうそう、島田虎之助」
「その先生とお立合をなすったことがおありなさるの」
「ない」
「あなたよりお強いのですか」
「…………」
「あなたの剣術のお流儀は、たしか甲源一刀流でございましたね」
「もとはそうであったが」
「島田先生は直心陰《じきしんかげ》だということではありませんか」
「そう、直心陰」
 こう話しかけていると竜之助の面に、ありありと幾筋かの苦悶《くもん》が現われるのであります。
「けれども、その島田先生もかわいそうなことをなさいました」
「かわいそうなこととは?」
 竜之助は聞き耳を立てる。
「まだお聞きになりませんか」
「まだ聞かない」
 竜之助は、我知らず声がはずむ。
 いろいろの人にも会い、いろいろの目にも遭ったけれど、要するに竜之助の眼中に残り、脳裏に留まって去らざるはただその人あるのみ。その人が斯様《かよう》な女から同情の言葉を受けるような身になろうとは――竜之助は、それを聞きたい。
 この時また、壊《こわ》れかけた扉がガタリビシリ。
「夜かぶりを持って来ましたが、はあ、御免下せえまし」
 男が一人、夜具蒲団と竹の皮包とを持って来てくれたのはそのままにして、話は島田虎之助|最期《さいご》のことにつながりました。
「島田先生は毒で殺されたのでございます、ただの死に様ではございません」
「毒で殺された?」
「病気で亡くなられたように、表面はそうしてありますが、毒殺なのでございます」
 竜之助は愕然《がくぜん》として驚く。
「誰が殺した、誰が島田を」
「それは誰だか存じませんが……あまり技《わざ》が出来過ぎますると、自分はそのつもりでなくても、人の恨みが重なりますからね」
「お絹どの、どうして島田がそうなったか、それをそなたがどうして知っている、よく話してもらいたい」
「ちょうどよい折ですから、お話し申しましょう、知っているだけをお話し申しましょう」
 お絹は柴《しば》を折りくべて、それを火箸《ひばし》で掻き立てながら、
「あの先生が、或る時、旗本のお邸へ招かれたと思召《おぼしめ》せ、そのお邸で、いろいろ武芸の話が出て、それからお夕飯の御馳走になったのでございます」
「その旗本というのは誰の邸」
「それは申し上げられませぬ、あとで申し上げる時節があるかも知れませぬが、今は申し上げられませぬ」
「それから?」
「島田先生も、大へん御機嫌《ごきげん》がよくて、常よりは御酒《ごしゅ》も過ごしなされ、御料理もよくいただいて、さてその帰りでございます」
「その帰りに?」
「そのお邸でお乗物をと申されたのを、お断わりなすって、今宵はなんとなく心持が面白いから歩いて帰ると、いくらか微酔機嫌《ほろよいきげん》でもあったのでございましょう、伴《とも》をつれずに、たった一人で下谷の御徒町《おかちまち》の方へお帰りになったのでございますよ」
「御徒町の道場へな」
「ちょうどその日に、わたしもまた同じお邸へ上ったものと思召せ、お女中にお花を教えたりしているところへ、島田先生が見えられたのでございます」
「なるほど」
「その日の正客《しょうきゃく》は島田先生で、お相客《あいきゃく》も五六人ほどございました、女中たちはなかなか忙《いそが》しそうだから、わたしのことゆえ、台所の方までも出向いて、差図《さしず》のようなことやお手伝いのようなことをしていますと、お女中がお膳部《ぜんぶ》を次の間まで持って行った時、そこの御主人が、まだ座敷へ出してはいかぬ、そこへ置けと女中たちに言いつけて、それから、島田の膳部はどれだどれだと念を押して尋ねていたのを、わたしが聞きましたが、やはりその時は何の気もつきませんでした」
「はて」
「それから、わたしは奥へ行って、また台所の方へ出ようとして、そのお膳部を差置いた間《ま》の外を通りますと、誰も女中がいないのに御主人が一人でいらっしゃる、その時も、やっぱり何の気もつかなかったのでございますが、わたしが通りかかるとその御主人が、あわてたような素振《そぶり》でついと立ったのが、そのとき少しおかしいとは思いましたが、それとても大して気には留めませんでした」
「うむ」
「それ
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